県内の城を歩こう!#13蒲原城
こんにちは!
今回は蒲原城を取り上げたいと思います。
前々回から、「信長公記」に記されている信長富士山見物ルートをたどりながら城を紹介しています。
蒲原に関しては、「1582年4月13日、早朝に浅間神社を出発した信長一行は田子の浦を通って富士川を渡り、神原の休憩所でしばらく馬を止めた」ということが記されており、この神原=蒲原であると思われます。(読みはかんばらです。)
「蒲原の休憩所」ということで城に滞在したのかは不明ですが、近くを通りかかったという事で取り上げることにしました。
富士川の右岸、標高138mの山に築かれています。
この辺りは海にまで山が張り出していて平野部が非常に狭い地形となっています。
城の西に見える薩埵峠を越えると興津・清水湊を経由して駿府へ入ります。
甲斐・伊豆・相模方面から駿府へはほとんどの場合ここを通らなければならないため、軍事・交通の要衝であり東海道でも有数の難所です。
現在も国道1号線・東名高速道路・東海道本線が集中していて東西交通の重要な場所であることが伺えます。
蒲原城は#12興国寺城と同様に今川・武田・北条それぞれにゆかりのある城です。
河東の乱で富士川一帯の情勢が不安定になると今川の前線拠点として活躍しますが、武田が駿河侵攻を開始し今川氏真が駿府を追われると、今川の援軍に来た北条氏が入城し北条の拠点となります。
北条氏は蒲原城に入ることで駿府にいる武田勢を封じ込めようとしました。
その際、北条氏は蒲原城に北条幻庵の次男・北条氏信を入城させています。
北条一門の武将を配置していることから、武田を駿河に入れたくないという強い意志があったのではないでしょうか。
また、蒲原城を前線拠点とすることで河東一帯を北条の支配下に置くことができることもその意図であったかもしれません。
退路を断たれそうになったことで一旦は甲斐へ戻る武田勢ですが、再び駿河に侵攻をはじめ蒲原城を総攻撃しました。
壮絶な戦いの結果、蒲原城は落城し北条氏信以下北条勢と今川諸将は多数討死にしました。
その後は武田が北条に対する備えとして城を改修し、1582年の武田征伐で織田・徳川勢に攻略されるまで活躍しました。
蒲原城の鳥瞰図です。
城は今川・北条・武田と城主が変わるたびに改修がなされて規模が拡大していきました。
本廓まではこのような道が続いています。
右の斜面には石垣が確認できます。
石垣の上には曲輪が配されているので右上方から射撃を受けることになります。
足軽の気持ちで歩いてみてください。かなり怖いですw
400年も経って城は風化して荒れているだろうに、登ってくる人に恐怖を与える城ってすごいと思います。
作り方が上手いのでしょうね。
まぁ、鬱蒼とした茂みからイノシシなどが飛び出してくるんじゃないかっていう別の恐怖もありますけどねw
でもそのイノシシが昔は敵兵だったというだけですから本質的には同じですね。
やっぱり名城なんでしょう。
最後に!
これは確か善福寺曲輪だったかと思いますが、尖った木がいくつも置いてあるのがおわかりでしょうか。
逆茂木です。
敵に簡単に侵入されないように曲輪の周囲に配置したり、堀底に敷いて落ちた敵を負傷させるために木の枝を削ったものです。
逆茂木まで再現されている山城はそう多くはないと思います。
これは完全に復元ですけど、あると当時をイメージしやすくなっていいですよね。
ただ蒲原城に関しては「逆茂木置く前に草刈りしてくれ」と思いましたがww
蒲原城いかがでしょうか。
駐車場も完備されていますしアクセスもしやすいと思います。
絶景も見れますのでぜひ訪れてみてください。
ではまたよろしくお願いします。
ありがとうございました。
県内の城を歩こう!#12興国寺城
こんにちは!
今回は興国寺城を取り上げたいと思います。
前回から数回に分けて「信長公記」に記された信長の「富士山見物巡行ルート」をたどりながら城を紹介していきます。
興国寺城は、信長一行が立ち寄ったことは記されていませんが、武田征伐に際して「北条氏政が共同作戦として出陣し興国寺に陣を張った」「信長は土地の者に興国寺・吉原・三枚橋…について尋ねた」などの記述があるため取り上げることにしました。
今川・武田・徳川などさまざまな大名家の勢力下に置かれますが、特にゆかりがあるのは北条家ではないかと思います。
まだ今川家の家臣であった後北条氏の初代・北条早雲(伊勢新九郎盛時)が初めて城の主になった場所です。
また信長がこの地のことを詳しく尋ねたように、富士川の東(河東)地域を治めるにあたって重要な拠点でもありました。
そして常に勢力圏の境目に置かれた城です。
今では要害さがいまいち伝わりづらいのですが、当時は城の南方に浮島ヶ原という低湿地が広がっていて、愛鷹山の斜面・急崖と低湿地を利用した地形を生かした城であったようです。
興国寺城の歴史は、北条早雲が今川家の家督争いで活躍し、その功績で富士郡12郷を与えられたことに始まります。
そこで早雲は興国寺を拠点とし当地を治めます。
早雲はその後、伊豆の堀越公方足利家を攻め滅ぼして伊豆国を掌握し、韮山城に居を移します。
そこで戦国大名としての北条家の歴史がスタートします。
ですから北条家にとって興国寺城はいろんな意味をもった城であったことと思います。
北条早雲が去ってからは今川氏が支配しますが、1536年(天文5年)に今川と武田が同盟を結ぶとそれに不満を抱いた北条が侵攻し北条の支配下に。
しかし、城を任せておいた城番が武田方に寝返り武田の支配下に。
そして今川と武田が婚姻を結ぶと今度は武田から今川に引き渡された、と言われており、この周辺は非常に情勢が不安定であったことが伺えます。
この緊張状態が落ちついたのが、かの有名な甲相駿三国同盟です。
これで一時の落ち着きを見せたものの、武田信玄による駿河侵攻が始まると今川の援軍として駿河にきた北条が城を接収して北条の支配下に。
しかし再び甲相同盟が結ばれると北条から武田に城を引き渡すことになり武田の支配下に。
・・・というように目まぐるしく支配者が交代していきました。
富士川以西の静岡人には印象が薄いですが、このように北条家は駿河にもかなりの頻度で侵攻し勢力を伸ばしてきていたことがわかります。
静岡の戦国史と言えば徳川や今川で語られがちですが、北条に関しても理解を深める必要があるなと改めて思いました。
さあ、お城自体の話にうつりますが、私が実際に訪れてみて驚いたのは堀の大きさです。
とてつもなく大きい空堀があります。
大堀切と呼ばれていて、愛鷹山からのなだらかな斜面を本丸の背後で断ち切っています。
そして堀が大きい分土塁も大きいです。
城の敷地も広く、戦国時代の城とは思えない大きさでした。
天守台もあります。
瓦は出土していないそうなので本当に天守が存在したかどうかはわかりませんが、石垣があり天守台と伝わっているそうです。
興国寺城は江戸時代初期まで存在し興国寺藩の藩庁として整備されたので、現在の大堀切や天守台はその時に築かれた可能性もあるそうですが、城地が大きかったことは間違いないと思います。
興国寺城にはいくつかの曲輪がありますが、「○○氏の時代はこの曲輪を増築した」とある一方で、「○○氏の時代はこの曲輪は使用せず城外とみなされた」など、支配者によって城域が変化したこともあったようです。
城域が徐々に拡大していくのはわかりますが縮小することもあったというのが興味深いです。
城を任されたのは良いものの「デカすぎて守りきれるか!」ってことがあったのかもしれませんねw
話は変わりますが、大堀切には不気味な横穴があります。
怖くて写真を撮るのをやめたのですが、のちに確認したところ防空壕の跡だったようです。
昨今、間近で防空壕を見る機会なんてないですよね。
廃城から300年ほど経っても人を守り続けてくれていたのかもしれません。
興国寺城は以上になります。
比較的アクセスはしやすい場所にありますからぜひ1度訪れてみてください。
城へはなかなか行けそうにない方。東海道新幹線の三島駅~新富士駅間に山に堀を掘って線路を通したような箇所があります。車窓の両側が山の斜面で、1度富士山や駿河湾の景色が遮られる場所です。
そこが興国寺城ですw
線路の通してある谷は興国寺城の堀跡という説もあるそうです。
新幹線に乗る機会がある方は「今城を走っている」というのを感じてみてくださいw
では次回は蒲原城を取り上げようかなと思います。
次回もよろしくお願いします。
ありがとうございました。
県内の城を歩こう!番外編 #11 富士山本宮浅間大社
こんにちは!
今回は城巡りの番外編として富士山本宮浅間大社を取り上げたいと思います。
本日は城ではありません。(少しはでてきますが・・・)
なぜ急に神社...?ということですけども、
私、最近になってようやく「信長公記」を読むことができました。
もちろん現代語訳版ですw
歴史好きの方はご存知かもしれませんが、「信長公記」は太田牛一という織田信長の側近が記した信長の伝記です。
信長の行動や発言が細かく書かれていて、織田家の隆盛と当時の情勢を知ることのできる貴重な資料でもあります。
そんな「信長公記」に浅間大社が登場したので浅間大社について書くことにしましたw
信長は1582年(本能寺の変の3か月ほど前)に甲斐の武田家を滅ぼした帰りに、富士山見物と称して駿河・遠江・三河を通って帰城します。
各地の城に宿泊しながら名所を見物し、ときには在地の人に詳しい説明をしてもらいながら観光を楽しんでいきました。
(本当に観光であったかは疑問ですが・・・また別の回でw)
甲斐を出た信長一行が駿河に入って最初に宿泊したのが、静岡県富士宮市にあります富士山本宮浅間大社です。
というわけで今日から数回は、「信長観光ルート」をたどりながら城や名所を紹介できたらなと思います。
では、浅間大社の紹介をしたいと思います。
富士山本宮浅間大社は富士山信仰で広がりをみせた全国約1300余りある浅間神社の総本宮です。
駿河国一之宮でもあります。
そして国司に任ぜられると最初にあいさつに行くのが一之宮です。
もし駿河の国司に任ぜられることがあれば真っ先にここへ来てください。
ちなみに、○○宮という神社(お宮さん)に関する地名は全国各地にあります。
浅間神社のある「富士宮」はもちろん、埼玉県の「大宮」、神奈川県の「二宮」、栃木県の「宇都宮」、愛知県の「一宮」、兵庫県の「三宮」などが挙げられます。
市町村名にまでなるお宮さんは歴史があって名の知れたところが多いですが、地元の小さな神社でも「宮下」とか「宮前」というような地名がつけられているところがあるかと思います。
富士山本宮浅間大社は、のちに市町村名にもなるほどの由緒ある格式高い神社で、駿河国一之宮であったことから信長も立ち寄ったのではないかと思います。
余談ですが、静岡の城を歩こうと題してブログを書いていますので、県内にある駿河国以外の一之宮も名前だけ紹介しておきたいと思います。
です。
遠江は一之宮が2つあります。
不思議ですwこちらもまた今度取り上げたいと思います。
では浅間大社の話に戻りたいと思います。
中世の富士山本宮浅間大社は戦国大名とのつながりもありました。
武田親子は浅間大社を篤く崇敬し神領の寄進や社殿の修造を行い、信玄の願状をはじめ武田家奉納の品が多く残されているそうです。
境内には信玄の寄進とされる桜も植えられています。
2月に訪れたので見ごろまではまだまだでしたw
お手植えの第二世だそうですw
徳川家康は、関ケ原の戦いの勝利のお礼として、本殿・拝殿をはじめ30余棟の造営と境内一円の整備をしたそうです。
本殿・拝殿・楼門等は当時のものが現在も残っています。
また、富士山8合目以上を境内地として寄進しました。
ところでみなさんは富士山の8合目以上が浅間大社の土地だという事を知っていましたか?
よく静岡と山梨が取り上げられて「富士山はどっちのもの?」という企画をテレビでやりますよね。
さんざん両県民に討論させた挙句、「実は8合目以上はどちらのものでもありません」という結論で終わることが多々あります。
それは8合目以上が浅間大社の境内であるからです。
「いや、そもそも富士山は日本国民みんなのものだ!」という意見もたまに見ますが、まあひとまずそれは置いといて・・・
私はこういう番組を見て思うんです。
富士山の頂上は富士山本宮浅間大社の土地だ。
だったら富士山は静岡の・・・
ここまでにしておきましょうw
さあ、もう締めようかと思ったのですが冒頭に城の話を少しすると言ってしまったので少ししますw
富士山本宮浅間大社のすぐ隣にかつて大宮城と呼ばれた城がありました。
城主は富士氏です。
浅間大社の大宮司を務める宮司武将でした。(そんな言葉あるのかは知りませんがw)
この大宮城、位置的に武田が駿河に侵攻すると最初に標的となってしまうお城ですが、2度ほど武田軍を追い返したと言われています。
ただ1569年6月に信玄本体が攻撃したこともあり富士氏は開城して退去します。
その後は武田氏の庇護を受けますが、1582年に武田家が滅亡し徳川家康が大宮城を確保します。
しかし同じ年、火災により焼失して廃城となりました。
現在は大宮小学校の建っている場所が城跡と言われております。
何か遺構が見られるかなと期待しながら付近を散歩してみましたがよくわかりませんでした。
みなさんも浅間大社から大宮城に行かれる際は(遺構無いですが)、近隣住民の迷惑にならない程度に散策してみてください。
いかがでしたでしょうか。
城巡りだけでなく御朱印集めなんかも趣味なので、たまには寺社仏閣の話も入れていきたいなと思っていますw(できるだけ戦国と絡めて・・・)
ではまたよろしくお願いします。
ありがとうございました。
県内の城を歩こう!#10花倉城 後編
こんにちは!
今日は前回の続きを書いていきたいと思います。
#10花倉城の後編です。
まずは城までの行き方を少し・・・
前回も書きましたが、花倉城は非常にアクセスのしにくい場所にあります。
山城は麓に駐車場があり歩いて登っていくのが一般的だと思いますが、花倉城の場合は山の頂上付近まで車で登っていくことができます。
そのかわり幅の狭い一本道がずっと続きます。
「ここから花倉城登り口」という標識もわかりにくくて(たぶん無かったような気がする・・・)、この付近の道は途中で引き返すことも難しいので、1人で登っていくにはかなり勇気が必要です。
頂上付近には2台ほど駐車できるスペースがあります。
駐車スペースの横にはこのような解説板があります。
登っている途中も花倉城跡を示す看板はほとんど無いのでとても不安ですが、これがあれば正解です。
駐車場から城跡へはすぐです。
登ってくるときには標識がほとんど無かったのですが、城跡に近づくとこれでもかというくらいに順路を示してくれますw
曲輪や堀の遺構は比較的わかりやすいです。
花倉城は山奥にあるイメージでしたが、二の曲輪からは志太平野を一望でき駿河湾まで見渡すことができます。
今川家がここに拠点を置いた理由が少しわかったような気がしました。
登ってみて初めて気づく、地図上だけではわからないことがあるから城巡りは楽しいですよね。
ここで、前回も参考にさせて頂いた「藤枝市史」に面白い話がありましたので紹介したいと思います。
という話です。
桶狭間の戦いへの出陣前夜、玄広恵探が義元の夢枕に立ち「西へは行くな、出陣をやめろ」と忠告したそうです。
それを聞き義元は「敵である恵探の話など聞けるか」と断ると、恵探は「今川家が滅びようとしているときに、これを愁えぬわけにはいかない」と言ったそうです。
結局義元は予定通り駿府を出立するするのですが、ちょうど花倉の近くの藤枝を通りかかった際、今度は町の中に恵探が立っていたそうです。
さすがの義元も無視できなくなったのか、切り捨てようとして刀に手をかけました。
しかし、義元以外に恵探の姿が見えていた者は誰もいませんでした。
・・・というお話です。
その後は皆さんもご存知の通り、西へ兵を進めた義元は織田信長に討たれ、恵探の言ったことが現実になってしまいました。
このお話は江戸初期の「当代記」という書物に書かれているそうです。
これがもし本当であれば、義元は尾張までの道中で家臣にこのことを相談したのでしょう。(義元が再び駿河の地を踏むことは無かったので・・・)
戦に向かうため弱気なところは見せられませんが、不吉な出来事なので側近には相談したのかもしれません。
それが桶狭間の後も語り継がれて「当代記」に書かれたのではないでしょうか。
恵探は敗者であるにも関わらず、今川家存続のため敵の義元にわざわざ忠告をしに亡霊となって出てきました。
この話が真実であれ作り話であれ、これを家臣たちが語り継いでいたのが面白いですね。
このエピソードを知って恵探のイメージが変わりました。
今までは「無謀にも家督欲しさに乱を起こした恵探」というマイナスな印象でした。
ですがどうでしょうか。
前回書いた花倉の乱や今回の夢枕の話。
恵探の別の一面が見えてきたような気がしませんか?
歴史は勝者が書きかえるものですから、義元や雪斎によって恵探が悪く書かれていたとしてもそれは当然のことなのかもしれません。
しかし、実は恵探の方が当主としては優れた人物だったという可能性もあるのではないかとも思えてきました。
今イメージしてるほど悪い人ではないのではないかと・・・
まあ、昔のことなのでなんとも言えませんがw
少なくとも今常識とされる歴史が当時の非常識ということは往々にしてあるという事ですね。
細かいエピソードから埋もれてしまった人物像を見つけていくのもまた歴史の面白いところだと思います。
例えば最近は、大悪人と言われてきた松永久秀までもが実は非常に有能な武将だったと取り上げられます。
本当に歴史は何が真実で何が嘘なんだかわかりませんw
研究がより進めば見えてくるものがあるのかもしれません・・・
かといって私は研究者ではないので、研究者の方々の新発見をテレビや雑誌で見てあれこれ考えて、説を自分なりに作って楽しんでいきたいなと思っておりますw
研究者の方々、頑張ってください!w
ではそろそろ終わりにしたいと思います。
また次回よろしくお願いします。
ありがとうございました。
県内の城を歩こう!#10花倉城 前編
こんにちは!
今回は花倉城を取り上げたいと思います!
花倉城は静岡県藤枝市にある城です。
別名「葉梨城」とも呼ばれます。
典型的な中世の山城で、観光客もほとんど来ないようなアクセスしにくい場所にあります。
私も花倉城の存在は知っていましたが、近くを通りかかってもいったいどの山が花倉城なのか全くわかりませんでした。
グーグルマップで経路検索して向かったのですが、3.4回ほど道に迷いました…w
ただ歴史的には非常に有名なお城です。
前回の#9久能山城でも少し触れた、今川家の家督争いである「花倉の乱」の舞台になったお城です。
個人的には最近「花倉の乱」に関して小さな発見があったので、乱自体の話もさせていただきたいと思います。
花倉城は1353年に今川家2代当主の今川範氏によって築城されたと言われています。
「花倉の乱」が勃発したのは1536年ですから、それより200年も前に築城されたことになります。
駿河守護として駿府(静岡市)を拠点としていたイメージの強い今川氏ですが、京から下向してきた当初は花倉(藤枝市)を拠点にしていたと言われております。
実際に花倉城の周辺には家臣の屋敷跡や今川家ゆかりの寺院が多く、花倉は今川氏が駿河支配の第一歩を踏み出した縁の深い地と言えます。
花倉(藤枝市)の位置する志太平野一帯にも今川家ゆかりの寺院などが点在しており、今川家の最盛期を支えた軍師・太原雪斎の墓や今川義元の母・寿桂尼の位牌が納められている寺もあります。
以上のように、花倉城は今川氏とのつながりが非常に深い城であったことがわかります。
花倉が今川家を二分する家督争い「花倉の乱」の舞台になったのもうなずけるかと思います。
では「花倉の乱」について少し書きたいと思います。
花倉の乱は1536年に勃発した今川家の家督争いです。
事の発端は今川家当主であった今川氏輝が24歳の若さで急死したことに始まります。そして同日に弟の彦五郎も急死します。
これによって次期当主の座をめぐり、栴岳承芳(今川義元)と玄広恵探(今川良真)が争います。
その時に玄広恵探が立て籠もったのが花倉城です。
この戦いに栴岳承芳が勝利し、今川義元として家督を継ぐことになりました。
今川義元の時代に今川家は最盛期を迎えますので、花倉の乱は後の「海道一の弓取り」を生んだ非常に重要な戦いなのですが、非常に謎の多い戦いでもあります。
まず状況が複雑です。
今川氏親と寿桂尼の間に生まれた長男が氏輝。次男が彦五郎です。
そして乱の当事者である義元が5男。
玄広恵探は4男・・・なのですが、母は寿桂尼ではなく、今川氏親と福島氏という家臣の娘との間に生まれた子になります。
順番的には4男の玄広恵探が継ぐことになりますが、庶子ということで5男の今川義元にやや正当性があるのかなという感じです。
ちなみにこの2人には強力なバックアップがついていました。
娘の嫁ぎ先や師弟関係の人物を当主に押し上げて自分が実権を握ってやろうというのはよくあることですよね。
玄広恵探には福島正成、今川義元には太原雪斎がついていました。
この乱について私は、駿府にいる今川義元側に対して家督奪取を目論んだ福島正成が玄広恵探を担ぎ上げて挑んだ一種の反乱だと理解していました。
しかし先日、花倉城が所在する藤枝市がまとめた「藤枝市史」を拝見したところ、花倉の乱に関してある発見がありました。
それはどの家臣がどちらの陣営に味方していたかという両勢力を表した図にありました。
それを見ると、なんと・・・寿桂尼が玄広恵探側についていたのです!
私はこれを見て衝撃を受けました。
上記した通り、寿桂尼は今川義元の母親です。
つまり、実子と庶子の戦いに庶子陣営として参戦していたことになります。
普通ならありえないですよねw
「参戦」という言葉をあえて使ったのは、寿桂尼が女戦国大名と呼ばれるほど今川家の中で絶大な権力を握っていたからです。
おそらく、寿桂尼が玄広恵探側についたことによって家臣たちは去就に大いに悩んだことではないかと思います。(重臣・朝比奈氏も玄広恵探側についていました。)
さらにそんな混乱に乗じて隣国からも援軍派遣というかたちで介入がなされました。
北条家は今川義元側、武田家は玄広恵探側につきました。
このように、「花倉の乱」は玄広恵探と福島氏が起こしたただの反乱ではなく、今川家が二分されたお家の一大事だったのです。
そもそもこの乱の1番の謎は、「氏輝が24歳の若さで急死」したことと「彦五郎が同日に死去」したことにあるでしょう。
かなり事件のにおいがしますねw
それを踏まえて、私は1つ説を考えてみました。
それは・・・「太原雪斎黒幕説」です。(すでに誰かが論じていたらごめんなさい)
太原雪斎が今川家で実験を握るために仕組んだことではなかったか、という説です。
実際、この乱の後雪斎は、僧でありながら軍師という立場で存在感を高めていきます。
太原雪斎は京でも修行を積んだ高僧で、出家していた栴岳承芳(今川義元)の師でありました。
相当頭がきれる人物であったと思われます。
雪斎は自分が育てた栴岳承芳に家督継がせるため、当主氏輝と弟彦五郎を一夜に暗殺する計画を立て、実行したのではないでしょうか。
もちろんその後に起こる家督争いまでも計算し、家臣を味方に引き入れる工作を速やかに行ったことでしょう。
ただ想定外であったのが寿桂尼の動きです。
まさか寿桂尼が敵方(玄広恵探)につくとは思わなかったのではないでしょうか。
これによって今川家が二分してしまうことになります。
ではなぜ寿桂尼が玄広恵探側についたのでしょう。
2つ目の大きな謎です。
寿桂尼も相当頭がきれる人物であったと思われます。
私は、このとき寿桂尼は雪斎が裏で暗躍していることを知ってしまったのではないかと思います。
雪斎黒幕が本当であれば、寿桂尼は雪斎に相当な恨みがあったと思われます。
なんせ長男と次男を同時に殺されたのです。
「雪斎に今川家を渡すわけにはいかない」「雪斎の好きにはさせない」という思いがあったかもしれません。
そうすれば実子に敵対することの説明がつきます。
つまり、栴岳承芳に敵対というより、雪斎に敵対するために玄広恵探側についたということです。
しかし、もしこの説が真実であれば、乱の後も寿桂尼が権力を握り続けられるのはなぜかという疑問が生じます。
普通敵対したら処罰されますよね。
戦国時代の武将にとってどちらに味方するかは生きるか死ぬかの選択でもあります。
もちろん、寿桂尼は義元の母ですから処刑されることはないでしょうが、敵方についた重臣のなかにも、朝比奈氏をはじめ義元時代に重用された人物はいます。
首謀者である玄広恵探は自害、福島正成は討ち死または逃亡したと言われておりますが、それ以外の大規模な粛清が行われなかったのは、やはり寿桂尼の存在が大きいのではないかと思います。
寿桂尼の参戦によって今川家が二分してしまい、予想以上の大乱になってしまいました。
よって敵方とはいえど、その後の今川家の勢力を保つためには多くの家臣を許すしかなかったのではないでしょうか。
整理すると、
①氏輝と彦五郎の急死は雪斎が仕組んだ
②それを知り寿桂尼は反雪斎の立場をとり庶子の恵探側に味方した
③寿桂尼の動きによって庶子の恵探側につく家臣も多くなり今川家が二分した
④乱終息後は首謀者を排除できたため、残りの家臣は勢力維持を理由に赦免
いかがでしょうか。
以上が私の思う花倉の乱です。
いくつかの不可解な謎がありますが、これであれば一応のつじつまが合うかなと思っています。
ただいろんな説があると思いますし、まだまだ研究されつくしていない有力な資料もあると思います。
素人の趣味の領域ですから、「こういう考え方もあるのかぁ」くらいで捉えてくださいw
#9久能山の時と同様、都市伝説みたいなものですねw
何度も言いますが一個人・一素人の考えですからねw
ちなみに、その後少し調べてみてわかったのですが、「氏輝と彦五郎は流行病で亡くなった」とか「そもそも義元は寿桂尼の実子ではない」という可能性もあるそうです。
ですから今の段階では何とも言えないですねw
でもまあ自分ではうまく説を作り上げられたかなと思ったので紹介してみましたw
これから今川家に関してはもっと詳しく調べてみたいと思っています。
また新たな歴史的発見があって、いい説が浮かんだら書いてみようと思いますw
今回は花倉の乱の話ばかりになってしまいましたw
まだ書きたいことがあるので、続きは次回書きたいと思います。
では今回はこれで。
ありがとうございました!
県内の城を歩こう!#9久能山城
こんにちは!
今回は久能山城を取り上げたいと思います!
久能城とか久能寺城とも呼ばれます。
現在は跡地に久能山東照宮が建ち、ロープウェイが整備されてアクセスもしやすく、観光客も多いです。
ただそこが城であったと知って見学している人は何人いるでしょうか…
今回は久能山城と久能山東照宮の両方をご紹介できたらなと思います。
久能山城は武田三大山城(武田三大名城)の1つに数えられます。
その名の通り武田の築いたお城として知られているのですが、今川家の家督争いである「花倉の乱」で玄広恵探派が拠点としたという記述があるようです。
別名に久能寺城とあるように、もともとこの地は山岳寺院がありました。
おそらく花倉の乱ではその寺院を拠点としたのだと思われます。
今川が滅亡して武田が駿河を治めることになった折に寺院は移転させられ、山城として整備されました。
上からは駿河湾がよく見渡せます。
写真奥に見える山のふもとには持舟城という水軍の拠点があり、反対に久能山城の裏手の清水湊には駿河支配の拠点である江尻城がありました。
久能山城はこの2拠点を中継する海上交通監視のために整備された城と思われます。
さらに天気が良ければ伊豆半島までよく見渡すことができ、北条水軍の動きも手にとるようにわかったことでしょう。
こちらはロープウェイの乗り口から城の方を撮った写真ですが、いかに急峻な城であるかがおわかりかと思います。(左奥の峰に東照宮があります)
周囲は断崖絶壁で、よくこんなところに城を築いたものだと感嘆させられます。
ちなみにロープウェイを使わずに登ることもできます。
でもその代わりすごい数の石段を登らなければなりません。
昔は地元のプロサッカーチーム・清水エスパルスが階段ダッシュをしていました。(今もやってるのかな…?)
私も1度やってみたことがありますが、走り切るどころか歩くのも苦しくて最終的には這って登ってきたのを覚えていますw
東照宮でお勤めされている神職の方々は毎日歩いて登っているそうです・・・
ありがとうございます😿
城の遺構ですが、東照宮が造営されたことやロープウェイが整備されたことでほとんど残っていません。
ただ、ロープウェイを降りる直前に左手に現れる石垣は当時のものと聞きましたので、気になる方はチェックしてみてください。
武田が滅亡すると次に駿河を治めることになったのは徳川です。
久能山城は徳川の管理する城となりました。
そして元和2年(1616年)に徳川家康が亡くなると城は廃城となり、その地に東照宮が造営され家康が埋葬されます。
東照宮とは神格化された家康を祀る社のことです。
世界遺産にも認定されています。
歴史にそれほど詳しくない人に久能山東照宮の話をすると、「久能山?知らなーい」「なにそれ?日光東照宮のマネ?」などと言われ悲しい思いをしたことがあります…w
日光だけではなく久能山も知ってほしい!
そういう強い思いで今日は書いていきますw
家康は駿府城で息を引き取る前、家臣にこう伝えました。
「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」
この遺言通りに2代将軍徳川秀忠は久能山に家康を葬り、その1年後に日光に移します。
ちなみに東照宮は東京の上野・芝、和歌山、広島など全国各地にあります。
その中でも久能山と日光は遺言にも登場している特別な存在と言えるでしょう。
ここで久能山東照宮に関する都市伝説を少し紹介したいと思います。
まず1つ目は「神廟が西を向いている」です。
これは有名ですね。都市伝説というより実際に意図があってそうされたのだと思います。
家康は幕府を開いて天下人になった後も西国の大名を非常に警戒していました。
ですから西国の大名が反徳川に動くことのないよう、死してなお西をにらむように埋葬させたということです。(でも結局最後は薩長という西国に倒されちゃいますが…)
ちなみに方角でいうと、日光東照宮は江戸の真北にあたり、家康が天帝(北極星)となって関東を見守るという意図があると言われております。
2つ目は「家康の遺体は久能山にある」というものです。
こちらも近年話題の都市伝説です。
一般的には家康の墓は久能山から日光に移されて遺体も日光にあると思われています。
しかし遺体は久能山に残されたままなのではないかという説があります。
たしかに遺言では「遺体は駿河国の久能山に葬り…」「…下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ…」とあり、遺体を日光へ移せとは述べられていません。
勧請とは「神仏の分霊を他の場所に移しまつること」であり、つまり日光に移したのは魂だけではなかったのかということです。
そうなると遺体はまだ久能山にあることになります。
この他にも、当時日光への勧請を指揮した者たちが詠んだ歌から御霊だけを移したことが伺える文言があるといいますし、家臣の墓の位置でもそれが裏付けられるといいます。
久能山に家康が眠っているとなれば全国的な知名度もあがるのかなと期待してしまうのですが、掘り起こすわけにもいかないので真実はわかりません…
今後の研究にも期待したいところです!
3つ目は「久能山と日光を結んだ線上に富士山がある」というものです。
こちらはいかにも都市伝説っぽいですよねw
確認してみると確かに間に富士山があります。
家康は富士山を非常に愛していたと言われています。
日本のシンボルでもある富士山と自らを祀る社を結ぶことで何か特別な力を持とうとしたのではないかと言われています。
ただその前に、はたして江戸時代にそんなことができたのでしょうか…
正直なところ私は可能性はあると考えています。できないこともないんじゃないかと。
なんせ家康は利根川をねじ曲げ、神田の山を削り、遠く離れた多摩川から何百分の1の勾配で水を引いてきて、世界一の都市をつくった男です。
今でいう大ディベロッパーですし測量の技術も高かったと思われます。
それに家康のもとへは舶来品として時計や天球儀が贈られています。
まだ江戸初期には国交のあったスペインやイギリスなどの海洋国家から、より高度な測量技術を学んでいたとしてもおかしくはないのです。
よって私は可能性はあるかなと思います。(絶対そうだとは言いませんw)
そんな都市伝説の真相を確認しにぜひ久能山へ足を運んでみてくださいw
東照宮に隣接する施設の中には徳川ゆかりの貴重な品々もみることができます。
もちろん山城ファンの方も訪れてみてください。
さて、今回はやや城から離れた話が多くなりましたがいかがでしたでしょうか。
城以外の話もたまにはしていこうと思いますw
次回は記念すべき#10です。
今からどこの城にしようかじっくり考えますw
では、またよろしくお願いします。ありがとうございました。
県内の城を歩こう!#8賎機山城
こんにちは!
今回は賎機山城(しずはたやまじょう)を取り上げたいと思います。
前回までは遠江(静岡県西部)のお城を多く取り上げてきました。
そしてここでようやく「今川家」がでてきます。
これまで紹介した掛川城や小山城も、もともとは今川方の築いた城や砦ではあるのですが、その後他の大名家によって大規模に改修されたため、今川色は薄まってしまっています。
その点、賎機山城は現代に残る数少ない今川色の濃いお城となっています。
この賎機山(しずはたやま)は「静岡」という地名の由来とされています。
賎機山→賎ヶ丘→静ヶ丘→静岡 みたいな感じだったと思いますw
静岡市の中心街は#1で紹介した駿府城の城下町が基盤となっています。
駿府城は徳川家康によって築かれたお城ですが、もともとその地には今川家の本拠である今川館がありました。
そして今川館の裏山である賎機山に、詰めの城として築かれたのが賎機山城でした。
今川家は駿河の守護として、駿府に館を構えて当地を治めていました。
通常館は平地に造られます。館を中心に町が形成され商業が発達していきました。
今川義元が当主の時代には、戦乱で荒廃した都から避難してきた公家もいたようで、第2の京都と呼べるほど町は賑わいを見せていたようです。
しかし、平地の館では有事の際に防御力が乏しいという欠点があります。
そこで館を拠点にしていた戦国大名は、付近の山に詰めの城を造ります。
山城であれば防御力が高いので、万が一敵が攻め込んでくるという時には館を捨て、詰めの城に籠って応戦することになります。
駿河の今川家をはじめ甲斐の武田家や越前の朝倉家など、長らくその地を治めている有力大名は平地の館と山地の詰めの城をもっていました。
賎機山は南北に長い山地となっており、城にあった解説板によると賎機山城の範囲は東西約400m・南北約600m以上にわたるそうです。
本丸まで尾根づたいにあるくと、駿府城(今川館)に近い山地の最も南端からでも30分はかかります。
武田家のコンパクトな山城を見慣れていた私にとっては巨大すぎる城でした。
(籠るなら1000人以上は欲しいとこだな…w)
先ほどから「詰めの城」と連呼していますが、上記した通り駿府城(今川館)からはやや距離があります。
解説板によると、南北朝時代に北朝方についた今川氏が南朝方についた安倍城の狩野氏に備えて築いた城で、南北朝以後は今川館の詰め城としての役割を果たしていたようです。
つまり、もともと詰めの城として築いたのではなかったのですね。
ちなみに安倍城は安倍川を挟んで対岸の位置にあります。
本丸からその方角を見て、めぼしい山をグーグルマップで調べてみましたがやはりそこが安倍城でした。丸見えですw
狩野氏からしてみても、対岸に大きな山城を築かれてかなりの圧迫感を感じていたことでしょう。
訪れた際には、詰めの城である賎機山城と安倍城への備えとしての賎機山城の両面を想像しながら登ってみてほしいと思います。
最後に余談ですが、実は大河ドラマ「真田丸」で賎機山の名前が会話に出てくるシーンがありました。
それは駿府城に真田親子が来た時のことです。
沼田領問題で仲違いしていた真田昌幸と徳川家康でしたが、豊臣秀吉に真田は徳川の与力となるよう命じられ、いやいやあいさつに来たシーンだったかと思います。
そのとき昌幸は「わしが家康を攻めるなら賎機山に陣を敷く。城内が丸見えだからな」みたいなことを言っていましたね。
私は「賎機山がついに大河に登場したか」と興奮しましたw
たしかに賎機山からは駿府城の動きは手に取るようにわかるでしょう。
ただ現実的なことを考えれば、家康もそのことは重々承知してますから、そう簡単に賎機山に真田軍を登らせることはないでしょうね。
真田昌幸も目をつけた山、と思って登ってみてくださいw
では今回はこの辺で終わりにしたいと思います。
次回も駿河の山城で・・・と考えています!
お楽しみに。ありがとうございました!