大納言メモ

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県内の城を歩こう!#8賎機山城

こんにちは!

今回は賎機山城(しずはたやまじょう)を取り上げたいと思います。

 

 

前回までは遠江静岡県西部)のお城を多く取り上げてきました。

今回は駿河静岡県中部)のお城です。

そしてここでようやく「今川家」がでてきます。

これまで紹介した掛川城や小山城も、もともとは今川方の築いた城や砦ではあるのですが、その後他の大名家によって大規模に改修されたため、今川色は薄まってしまっています。

その点、賎機山城は現代に残る数少ない今川色の濃いお城となっています。

 

 

賎機山城は静岡県静岡市にある賎機山に築かれたお城です。

この賎機山(しずはたやま)は「静岡」という地名の由来とされています。

賎機山→賎ヶ丘→静ヶ丘→静岡 みたいな感じだったと思いますw

 

静岡市の中心街は#1で紹介した駿府城の城下町が基盤となっています。

駿府城徳川家康によって築かれたお城ですが、もともとその地には今川家の本拠である今川館がありました。

そして今川館の裏山である賎機山に、詰めの城として築かれたのが賎機山城でした。

 

 

今川家は駿河の守護として、駿府に館を構えて当地を治めていました。

通常館は平地に造られます。館を中心に町が形成され商業が発達していきました。

今川義元が当主の時代には、戦乱で荒廃した都から避難してきた公家もいたようで、第2の京都と呼べるほど町は賑わいを見せていたようです。

しかし、平地の館では有事の際に防御力が乏しいという欠点があります。

そこで館を拠点にしていた戦国大名は、付近の山に詰めの城を造ります。

山城であれば防御力が高いので、万が一敵が攻め込んでくるという時には館を捨て、詰めの城に籠って応戦することになります。

駿河の今川家をはじめ甲斐の武田家や越前の朝倉家など、長らくその地を治めている有力大名は平地の館と山地の詰めの城をもっていました。

 

 

賎機山は南北に長い山地となっており、城にあった解説板によると賎機山城の範囲は東西約400m・南北約600m以上にわたるそうです。

本丸まで尾根づたいにあるくと、駿府城(今川館)に近い山地の最も南端からでも30分はかかります。

武田家のコンパクトな山城を見慣れていた私にとっては巨大すぎる城でした。

(籠るなら1000人以上は欲しいとこだな…w)

 

 

先ほどから「詰めの城」と連呼していますが、上記した通り駿府城(今川館)からはやや距離があります。

解説板によると、南北朝時代北朝方についた今川氏が南朝方についた安倍城の狩野氏に備えて築いた城で、南北朝以後は今川館の詰め城としての役割を果たしていたようです。

つまり、もともと詰めの城として築いたのではなかったのですね。

ちなみに安倍城は安倍川を挟んで対岸の位置にあります。

本丸からその方角を見て、めぼしい山をグーグルマップで調べてみましたがやはりそこが安倍城でした。丸見えですw

狩野氏からしてみても、対岸に大きな山城を築かれてかなりの圧迫感を感じていたことでしょう。

訪れた際には、詰めの城である賎機山城と安倍城への備えとしての賎機山城の両面を想像しながら登ってみてほしいと思います。

 

 

最後に余談ですが、実は大河ドラマ真田丸」で賎機山の名前が会話に出てくるシーンがありました。

それは駿府城に真田親子が来た時のことです。

沼田領問題で仲違いしていた真田昌幸徳川家康でしたが、豊臣秀吉に真田は徳川の与力となるよう命じられ、いやいやあいさつに来たシーンだったかと思います。

そのとき昌幸は「わしが家康を攻めるなら賎機山に陣を敷く。城内が丸見えだからな」みたいなことを言っていましたね。

私は「賎機山がついに大河に登場したか」と興奮しましたw

たしかに賎機山からは駿府城の動きは手に取るようにわかるでしょう。

ただ現実的なことを考えれば、家康もそのことは重々承知してますから、そう簡単に賎機山に真田軍を登らせることはないでしょうね。

真田昌幸も目をつけた山、と思って登ってみてくださいw

 

 

では今回はこの辺で終わりにしたいと思います。

次回も駿河の山城で・・・と考えています!

お楽しみに。ありがとうございました!