県内の城を歩こう!#7諏訪原城
こんにちは!
今回は諏訪原城を取り上げたいと思います!
金谷は東海道の宿場町として栄えた地で、現在はSLで有名な大井川鉄道があることでも知られています。
東は大井川、西は牧之原台地の北端にあたり、それらに挟まれるように町が広がっています。
諏訪原城は台地の先端にあたり、金谷の町からは急崖を登ったところに位置しています。
#6で取り上げた小山城と同様に、台地を利用した天然の要害で、付近には東海道が通る交通の要衝でもありました。
諏訪原城は天正元年(1573年)に武田家によって築かれたお城です。
築城者は馬場信春。当時徳川方にあった高天神城、および遠江攻略のための拠点として活躍しました。
また、台地を沿うように流れていた大井川を利用し、下流の小山城と連携をとることで強固な防衛ラインを形成していました。
つまり、武田家にとって諏訪原城と下流の小山城は遠州(高天神城)攻略の拠点でもあり、駿河防衛の拠点でもあったのです。
ちなみに「諏訪原城」という名前は、武田方が城内に諏訪大明神を祀ったことが由来だそうです。
現在も城跡内には祠のようなものがあります。
諏訪大明神というのがまた武田の名残っぽくていいですよねw
諏訪原城は長篠の合戦の後徳川方に攻略されてしまうのですが、その時は牧野城と呼ばれたそうです。(牧之原台地にある城だからかな…?)
でも現在は諏訪原城という武田時代の呼び名が一般的です。
そんな武田方の諏訪原城は上記したように、長篠の合戦後1575年に徳川家に奪取されてしまいます。
それまで小山城などと連携を取りながら機能していた防衛ラインが機能しなくなりました。
諏訪原城の城兵は小山城へ逃げ込みます。
東海道・大井川を監視できる諏訪原城を徳川に奪われたことによって、高天神城への輸送や援軍も徐々に困難になっていきます。
そして1581年に高天神城が落城し翌年から甲州征伐が開始されると、小山城の兵も城を捨て武田領国へ引き上げます。
その際、逃げ切れる見込みの少ない女性たちは堀に身投げをしたと伝わります。
諏訪原城兵の関係者もその悲劇を味わったのかもしれません。
こうして駿河防衛ラインは崩れ武田は滅亡の一途をたどり、徳川が駿河を占領することになります。
以上が#4から紹介してきた武田vs.徳川の遠州(高天神城)攻防戦です。
堅牢な城と強固な防衛ラインを形成していた武田家でしたが、長篠の戦いで状況は一変しました。
自然を生かして非常に上手く作られた城と支城ネットワークでしたが、武田家が滅亡してしまったことでそれを知る地元民は多くありません。
駿河における武田家の活動をもっと知ってもらえるよう発信を続けていきたいと思います。
話がそれてすみません。
諏訪原城の話に戻りますw
諏訪原城の良いところは、武田流築城技術が見られることと見学のしやすさです。
武田流築城技術は、#6小山城でもご紹介したように丸馬出と三日月堀の事です。
諏訪原城では綺麗なそれらを見ることができます。
私が訪れたのは数年前ですが、綺麗に整備されていて城の特徴がよくわかる素晴らしい山城だと感銘を受けた覚えがあります。
2019年にはビジターセンターも設置されたようで、より整備の進んだ、見学する方にやさしいお城になっていると思います。(私ももう1度行こうと思います…w)
また通常山城の遺構は山肌がむき出しであるため、登山のようで足にも負担がかかるのですが、諏訪原城にはウッドチップが敷かれており非常に見学しやすく足にやさしいお城でした。
駐車場からも近いですし、山城といっても台地上に築かれていますので城跡内は比較的平坦で、見学しやすいお城となっております。
最後に城内からの眺めをお見せしたいと思います。
写真は城から南東の方角(駿河方面)を見ています。
手前にはJR東海道本線の金谷駅があり、奥には大井川が流れています。
大井川の向こう側が駿河国になります。
当時は大井川が城の近くを流れていたそうなので、より堅固な城であったことが伺えます。
山城は天守がないことが一般的ですが、それでも高台にあるので眺望がすばらしいです。
広く見渡せることもそこに城が造られた理由の1つだと思います。
景色を眺めながら懐古するのもまた城巡りの醍醐味です。
このアングルとは別ですが、天気の良い日には富士山も望めます。
ちょっとしたハイキング気分でも良いと思います。
ぜひ訪れてみてください!
今回はこれで終わりです。
次回は、駿河の城を取り上げたいと思います!
これまで徳川・武田の城が多かったので、今川の城を取り上げてみようと思います。
それでは!
県内の城を歩こう!#6小山城
こんにちは!
本日は小山城を取り上げたいと思います!
栃木県には小山城(おやまじょう)がありますが、こちらは静岡県の小山城(こやまじょう)です。お間違えないようにw
前回#5で取り上げた横須賀城が、高天神城攻略のために徳川方が築いた城であったのに対して、今回の小山城は高天神城への重要な輸送拠点となっていた武田方の整備したお城になります。
私がぜひ見てもらいたい小山城の見どころは「武田流の築城技術」と「展望台」の2つです!
武田流の築城技術の特徴はなんといっても「丸馬出」と「三日月堀」。
大河ドラマ「風林火山」でもおなじみ、武田家で軍師的な役割を担っていた智将・山本勘助は、城づくりに際して「小さく丸く」ということをモットーにしていたようです。
少ない人数でも効率よく守ることができることを目指したのだと思います。
そのような遺構が小山城で見ることができます。
ちなみに小山城の改修を担当したのは勘助ではなく馬場信春という人物です。
武田四名臣にも名を連ねる猛将ですが城の設計にも長けており、山本勘助が川中島の戦いで戦死してからはその遺志を継ぎ、特に駿河・遠江付近の城はほとんど馬場信春の手によって改修されています。
(風林火山でも勘助と信春はよく行動を共にしていました。そこで知恵を伝授されたのかもしれませんw)
展望台に登ると「丸馬出」と「三日月堀」の遺構がよくわかります。
「馬出」とは城の入り口の外側に設けられるある一定の広さの空間のことで、周囲に堀をつくり両端に出入口を設けます。
ここに馬(兵)を待機させておき、相手の攻撃が緩んだ瞬間に両端から出撃して攻撃します。
片方の入り口を集中的に攻められた場合は、もう片方の入り口から出撃して敵を挟み撃ちにすることもできます。
守るだけではなく、隙あらば敵を減らしに行こうというのが馬出を作る理由です。
大坂冬の陣で活躍した「真田丸」もこの武田流の丸馬出が原型となっています。
防御力もさることながら攻撃力も兼ね備えた設備です。
馬出を丸く作ることで外側の堀は自然と三日月型になります。これが三日月堀です。
つまり、武田の丸馬出と三日月堀は多くの場合セットで登場します。
小山城をはじめとする静岡県中部の城では武田家の駿河侵攻に際して改修された城が多いので、しばしばこのセットを見ることができます。
見どころのもう1つは展望台です。
先ほどからあえて「天守」と呼ばないのは「模擬天守」であるからです。
掛川城や浜松城の回でも触れましたが、天守にはいくつか分類があり、江戸時代以前には天守の存在しなかったお城に建てられた天守を「模擬天守」と呼びます。
ちなみに小山城の場合、正式名称は「展望台小山城」のようです。
(天守と言い張らずに謙虚に展望台というところが良いですねw)
ただ展望台と言っても、中には当地に発給された信玄・勝頼の書状などの武田家ゆかりの品々が展示してあります。
私が訪れた時には武田勝頼のパネルが出迎えてくれた記憶があります…w
最上階の5階まで登れば城の構造や馬出の遺構がしっかりと確認できますし、周囲の地形も確認できますので、どうして武田家がここに城を築いて拠点にしたのかがよくわかると思います。
あと地形のことを少しだけ…
小山城は牧之原台地から連なる舌状台地の先端に位置しています。
つまり台地の繋がっている方向以外は崖状になっていました。
写真のように急な階段を登らなければいけません。
当時はこの下を川が流れていました。
この川が付近を流れる大井川の支流であったこともあり、武田軍はこの河川交通によって物資の輸送を行っていました。そしてその拠点として小山城が整備されたのです。
展望台に登ることによってそういったことが実感できると思います。
模擬の天守ではありますが、展示スペースがあり眺望もよく遺構やまわりの地形がよくわかる、すばらしい模擬天守です。
訪れた際にはぜひ最上階まで登ってみてくださいw
さて最後に、武田家が小山城を遠江攻略の拠点と位置付けた理由・大井川を利用した武田家の戦略・そして小山城の本当の強さと悲劇…
これらを語りたいところなのですが、それは次の#7諏訪原城の回にまとめてお話しようと思います。
諏訪原城は小山城同様、高天神攻防戦の重要な城の1つで武田の名残がたくさん詰まったお城です。
私の好きな山城ランキングトップ5に入ってくるお城ですw
ぜひ見てください。
今回は以上です!
ありがとうございました。
県内の城を歩こう!#5横須賀城
こんにちは!
今回は、横須賀城をご紹介したいと思います。
横須賀城と言ってもあの軍港でおなじみの横須賀ではありませんw
#2の掛川城から静岡県西部の城が連続してしまっていますが、中部・東部・伊豆の城もいずれ取り上げますのでご了承くださいw
横須賀城は、#4で紹介した高天神城から数キロのところにあります。
それもそのはず。このお城は高天神城奪還のための拠点として築かれた城なのです。
ですので、高天神城のすぐ後の#5で取り上げさせてもらいました。
横須賀城は天正6年、徳川家康が家臣の大須賀康高に命じて築かせた城です。
この城を拠点にして高天神城奪還作戦を開始し、天正9年の高天神城落城まで最前線の城として活躍します。
その後高天神城は廃城となりますが、横須賀城は遠江国南方の拠点として存続します。
江戸時代に入ると、明治維新まで約280年間にわたり横須賀藩の政庁として活躍することになります。
写真は横須賀城の復原模型です。横須賀城跡に設置されています。
このような模型があると非常にうれしいです。素晴らしい模型でした。
横須賀城の見どころは、「大手門が2つある」「玉石積みの石垣」そして「入江をもつ半海城」が挙げられます。
1つ目の「大手門が2つある」ですが、通常の城であれば大手門は1つしかありません。
大手門とは城の玄関にあたる重要な門です。
大手門からのびる道を大手道、大手道に沿って形成される町を大手町と言います。
東京にも大手町という駅がありますね。城下町に起源をもつ都市には全国どこにでも「大手」(もしくは「追手」)という地名が残っています。
「大手」を見かけたら、ここが城の正面だったんだ、と思ってください。
そんな大手門が横須賀城には2つあります。東大手門と西大手門です。
東西に長い城なので利便性をもとめて大手門を増やしたのでしょうか。
模型を見る限りだと藩庁が置かれている三の丸を後に増築したような感じもしますね。
そのため藩庁へ登庁しやすいところに大手門を作ったのかなと思います。
いずれにせよ珍しい構造です。
2つ目の「玉石積みの石垣」ですが、一般的な石垣は角ばった石を積み上げていきますが、横須賀城では丸い河原石を用いて石垣が築かれています。
丸い河原石を積み上げることを玉石積みと言います。
写真のような玉石積みの石垣は、私は他に見たことがありません。
おそらく、城の立地が海沿いで石を切り出してくる山が近くになかったこと、天竜川という大河川が付近にあり河原石を調達するのが容易であったことから、このような石垣が築かれたのだと思います。
高石垣もきれいですが、玉石積みの石垣もまた良いですよね。
3つ目の「入江をもつ半海城」ですが、これは模型でもわかるように、城のすぐそこまで入江が迫っており、海上輸送・海上交通の監視に便利な城であったということです。
海城(水城)とは堀が海(湖)と直結しており、船を利用した物資や兵員の輸送に適した城のことで、瀬戸内海や琵琶湖周縁の城で見ることができます。
またこの入江は当時、逆川という河川の河口になっていました。
逆川は横須賀城の北に位置する掛川城の外堀と繋がっており、横須賀城から掛川城まで船で行き来することができたようです。
輸送の面で非常に優れた城であることが伺えます。
ただ、現在は入江は無く海からもやや離れています。
築城当時は確かに入江が存在した横須賀城ですが、宝永4年の大地震により大規模な隆起が発生し、入江が陸地になって海から離れてしまったそうです( ゚Д゚)
この解説を見たとき、私は大手門が2つあることよりも玉石積みの石垣よりもはるかに驚きました。
自然の力ってすごいです。
訪れた際にはぜひそんな地球の営みも感じてほしいと思います。
最後に、掛川城・高天神城・横須賀城は掛川三城と呼ばれパンフレットも作成されています。
車で回れば1日でも余裕をもって巡ることができますので、セットで訪れてみてください!
以上で#5横須賀城を終わります。
ありがとうございました。
県内の城を歩こう!#4高天神城
こんにちは!
今日取り上げるのは、#4高天神城です!
戦国時代には「高天神を制するものは遠州を制す」と言われるほど、遠江支配の重要な拠点の城で、この城をめぐって徳川家康と武田信玄・勝頼が激しい戦いを繰り広げました。
しかし現在では兵どもが夢のあと…そんな喧噪とは程遠いゆっくりとした時間の流れる田舎の風景が広がっています。
山城ファンにはたまらないお城ですが、そうでない人にとってはただの山にしか見えないかもしれませんw
でもコロナ禍で、「外の空気吸いたいけど人混みは避けたい」という人には山城ってすごくおすすめですよw
新鮮な山の空気を吸えてかつ、人は全然いませんからねw
興味を持ったらぜひ出かけてみてください。
高天神城は遠江国(静岡県西部)の東西のほぼ中央に、南北でみると南寄りに位置しています。
冒頭でも紹介した通り、「高天神を制するものは遠州を制す」といわれる重要拠点です。
今となっては、(なんでこの山がそこまで重要なの?)って感じですが、徳川家康と武田信玄・勝頼親子はこの城をめぐって争います。
そしてこの城での戦いが武田滅亡の引き金を引いてしまったとか…
そんな歴史的にも地政学的にも重要なお城なのです。
城の入口に想像図がありました。図があると本当にありがたいです。
特に山城はイメージがつかみにくいですからね。これあると楽しみが倍増しますw
おそらく高さが強調されていると思いますが、だいたいこのような感じだったのでしょう。
このような図もありました。
年表とお城周辺の砦などが描かれた図です。
特に高天神城の攻防がわかる砦の図、これはいいですね。
お城って、ただ単に強固なものを1つ建てればそれで地域を支配できるかといえば、そう簡単なものではないと思います。
お城には築かれる場所の地理や地形に合わせて綿密な計算が施されています。
ですからそのお城を知るには、周辺の地理や地形、情勢が重要だと私は考えています。
1つの城の構造だけを楽しむのも良いですが、当時の情勢や周辺の地理を知ると「なんでこんなところに城を築いたのか」「なんでこんな城が重要視されていたのか」などの疑問が解決したり、何の関係もなさそうな2つの城が実はある理屈で繋がっていたりと、ミステリーの謎ときのようにどんどん歴史にのめりこんで、城巡りがもっと楽しくなると思います。
すみません。話がそれましたw
高天神城は今川氏滅亡後、徳川氏に従属した小笠原氏が城主となり治めていました。
元亀2年には、武田信玄率いる2万5千の兵に包囲されますが落ちることはなく、「信玄も攻めあぐねた城」ということで名を馳せます。
しかしその3年後の天正2年、今度は信玄亡き後武田家の当主となった武田勝頼が2万の兵で包囲し攻撃してきました。
城主小笠原氏は降伏して城は開城。
「信玄も落とせなかった高天神を父より少ない兵で勝頼が落とした」
この事実は勝頼の力が信玄を上回るものだということを周囲に知らしめることになりました。
しかしこの高天神勝利のおごりが勝頼の暴走を招いたとされています…
この件についてはのちのち、長篠城を紹介するときにでもじっくり書きたいと思います。
さて、武田家の支配下になった高天神城ですが、翌年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に武田が大敗北を喫すると、次第に遠州では徳川の勢力が盛り返してきます。
天正7年、城代に元今川家臣の猛将・岡部元信を入れ、いよいよ徳川との決戦の気運が高まったところで、翌年、ついに徳川勢が高天神城奪還の兵を挙げ城を包囲しました。
上図でもわかるように、徳川勢はいくつもの砦を築き、物資の搬入を完全に遮断しました。
こうなると勝頼は兵糧を届けさせることもできず、自分が兵を率いて救援に来ることももはやできない状況であったため、高天神城の兵たちは10か月ほど籠城したのちに、岡部元信以下城を打って出て全滅しました。
そして後詰(援軍)を送ることができず、結果的に高天神城を見殺しにしてしまった勝頼の信頼は地に落ちます。
もはや武田はこれまで、と離反する武将が相次ぎました。
武田の弱体化によって徳川は駿河まで勢力を拡大し、高天神城は戦の最前線という呪縛から解放され、役目を終えることになります。
こうしてみると、武田勝頼って高天神城に振り回された感じがしますね。
高天神城攻略で家中にひびが入り、陥落で瓦解した。
武田家にとっては重要なターニングポイントのお城だったのではないでしょうか。
最後に城からの眺めを紹介します。
道標というよりは、その方角に何が見えるかという標識ですね。
南アルプスなんて歩いて行ける距離ではないので気を付けてくださいw
2枚目は右手奥に遠州灘、左手には牧之原台地が見えます。この台地の向こう側には武田方が築いた城がいくつかあります。
岡部元信は毎日ここから武田の援軍を待ち続けていたのかもしれないですね…
以上で#4高天神城を終わります!
次回もお楽しみに!
ありがとうございました!
県内の城を歩こう!#3浜松城
こんにちは!
今回は、「県内の城を歩こう!#3浜松城」をお送りします!
浜松城は静岡を代表するお城のひとつです。
場所は静岡県浜松市。徳川家康が29歳から45歳までの17年間居城としていた城です。
この期間の徳川家は、姉川、長篠・設楽原、小牧・長久手など、歴史に残る数々の戦に出陣しています。
また、宿敵武田家との遠州を巡る争いは激しさを増し、特に1572年の三方ヶ原の戦いでは大敗北を喫するなど、苦難の多い試練の期間でもありましたが、家康はそれを乗り越えて大大名へと成長し、天下人への道を歩んでいくことになります。
また、江戸時代には譜代の大名が代わる代わる城主を務めました。
浜松城主経験者が幕府要職(老中、大坂城代、京都所司代など)に就くことが多かったため、家康の成功にもあやかって、いつしか「浜松城」=「出世城」と呼ばれるようになり、天保の改革でおなじみの老中水野忠邦も進んで浜松城主になったと言われています。
ちなみに、浜松市のゆるキャラに「出世大名家康くん」がいます。
浜松市の名物であるうなぎがちょんまげ、羽織にみかん、袴にピアノの鍵盤があしらわれている非常にかわいいゆるキャラです。
この銅像よりもかなりぽっちゃりゆるい体型ですが…w
運が良ければお城で会えるかも…w
さて、前回の「#2掛川城」で天守の話をしましたので、今回も天守の話を少しさせていただきます。
浜松城の天守は「復興天守」(模擬天守とも)という分類になります。
「復興天守」とは、天守があったことはわかっているが、どういう構造の天守だったかはわからないため、忠実な再現ではないけれどもイメージして建てた、という天守です。
これが、「天守が存在しなかったことが明確」なのにも関わらず、城跡に天守を建てている場合は、「模擬天守」という分類になります。
浜松城の天守は家康が居城としていた時代には無かったと言われています。
天守は、家康が関東へ移封となったのち、豊臣系の堀尾吉晴・忠氏親子が城主の時代に築かれたという説がありますが、これも定かではないそうです。ですから「浜松城天守」=「模擬天守」と紹介されていることも多いみたいです…
私は、堀尾時代に天守が存在したと信じています。
#1駿府城・#2掛川城も豊臣恩顧大名たちが城主になった時に立派な天守を建てていますからね。
きっと建てられていたと思いますw
ですからここではあくまで「復興天守」ということでw
ちなみに復興天守だということがよくわかる写真があります。
現代人があとから天守をのっけた感が伝わってきますw
天守台の写真を見てお気づきかもしれませんが、浜松城は無骨な野面積みの石垣が残っているところも見どころです。
三方原台地の斜面を利用して、大きな高低差をつけています。
地形をうまく利用しているのがよくわかるので、山城ファンも楽しめると思います。
縄張りも比較的想像しやすいです。
もちろん石垣が好きな人にもおすすめです。
城の周りは公園になっていますから、散歩をしに行くのも良いと思います。
公共交通機関でアクセスできると思いますが、三方原古戦場や犀ヶ崖資料館を巡りたい場合は車がおすすめです。
ぜひ訪れてみてください!
では今回はこのあたりで終わります。
次回からは少々マニアックな城になるかもしれませんがお楽しみにw
ありがとうございました!
県内の城を歩こう!#2掛川城 後編
こんにちは!
今回は、前回途中で終わってしまっていた「#2掛川城」の続きをお送りします。
前回は掛川城のすごいところが2つある!とい言っておきながら1つしか紹介していませんでしたので、今回は2つ目のすごいところをご紹介したいと思います。
2つ目のすごいところはずばり、本物の「御殿」です!
「御殿」とは、藩主の公邸・藩の公的式典・藩の政務などを執り行う施設で、いわば城で最も重要な役割を担う施設です。
掛川城の御殿は、江戸時代に建てられたものが今でも残っており、全国的にも珍しい現存する城郭御殿です。
ちなみに城郭御殿が現存しているのは、掛川城の他に、二条城・高知城・川越城の計4城だけだそうです!
掛川城と二条城には二の丸御殿、高知城と川越城には本丸御殿が残っています。
掛川城の御殿は、国指定重要文化財ですが中に入ることできますので、訪れた際にはぜひ、天守だけで満足せずに御殿にも足を運んで、藩主気分を味わってみてくださいw
最後に、御殿の写真がなかったので天守から見た城下の風景を載せておきますw
これは南の方角です。JR掛川駅の新幹線ホームがみえるはず・・・なんですがよくわかりませんねw
②はおそらく北側の写真だと思います(うろ覚えw)
城に向かってまっすぐな道が印象的です。
写真からもわかるように、この辺には小さな丘が点在しています。
私は当時に立ち返り、(この丘が出城だったら…)とか(この小山を砦にして兵が隠れていたら…)とか考えながらこの付近を通りますが、なかなかの難攻不落さが感じられます。
実際に、駿河の大名今川家が滅亡寸前だった時、駿河を放棄して最後に立て籠ったのがこの掛川城でした。
徳川家康に包囲され孤立無援の状況のため、最終的には和睦して開城し、戦国大名今川家は滅亡しますが、掛川城が攻め落とされることはありませんでした。
今川家滅亡後は徳川家と武田家が、掛川城のある遠江国(遠州)を舞台に、長年にわたって戦いを繰り広げます。
一時期は、同じ掛川市にある遠州の名城・高天神城をはじめとして、多くの城が武田方の手に落ちましたが、掛川城だけは武田滅亡まで一貫して徳川の城であり続けました。
このように掛川城は、見た目の美しさ・歴史的価値の高さ・実用性の高さ(強い城)という三拍子揃った名城ですので、ぜひ訪れてみてください!
訪れるときには天守とともに御殿に行くのも忘れずに!
#2掛川城は以上です。
#3は浜松城を予定してます!
では、また次回お会いしましょう。ありがとうございました。
県内の城を歩こう!#2掛川城
こんにちは!
本日は「県内の城を歩こう!#2」をお届けしたいと思います!
静岡県内の城をご紹介していく当シリーズ。第2回目は掛川城です!
前回が駿府城で今回が掛川城…まずは天守のあるお城から紹介してくことにします!
山城ファンの方、もう少しお待ちくださいw
では、お城のご紹介です。
「掛川城」の所在地は静岡県掛川市。城は掛川市街の中にあり、掛川という町が城下町に起源をもつ都市だということがわかります。
城の南側には、新幹線の停車駅でもあるJR掛川駅があり、車窓からも天守がよく見えます。
このお城のすごいところを本日は2つ紹介したいと思います!
1つは、天守です!
現在全国各地にあるお城の天守閣は、実はいくつかの種類に分けることができます。
「現存天守」というのを聞いたことがあるでしょうか?
これは名の通り、城が現役であった江戸時代以前に建てられ、数々の天災や戦災を乗り越えて今に至る、いわゆる「ホンモノ」の城です。これは12城しか残っていません。
その次にレアなのが、この掛川城が分類される「木造復元天守」です。
「木造復元天守」とは、当時の図面や工法をもとに木造で復元した天守のことを指します。
ですから、きわめて「ホンモノ」に近い後世の作り物という事になりますねw
ただ技術の発達した現代でも、当時の図面や工法に沿って忠実に再現するには数々の困難があります。
1つは技術の問題、2つ目は建築基準法や消防法など建築当時には無かった法律の問題、3つ目はお金の問題です。他にも困難はあると思いますが大きくはこの3つでしょう。
やはり木造で復元しようとすると、良質な材料費や高い技術を持った大工集団を雇う人件費などで、鉄筋コンクリート造よりもコストがかかるみたいです。
ですから、「木造復元天守」は全国的に見ても珍しく、掛川は貴重な存在というわけですね。
ちなみに、掛川城の天守は山内一豊という武将が城主となった際に建てられたものです。大河ドラマ「功名が辻」で知られる人物です。
その後一豊は土佐に移され、高知城を建築します。
時代はめぐって掛川城天守再建の熱が高まった時、実は残っていた図面(もしくは絵図)では完璧に復元することが難しかったそうです。
よって、山内一豊が掛川城のとおりに築いた高知城天守を、逆に復元掛川城のモデルにしたのです。(ちなみに高知城は現存天守なので当時の姿とほぼ変わらないと思われます。)
こうして時を超え、山内一豊の築いた天守が掛川に再建されたわけです。
ただ完全な復元ではないから若干グレーな気もしますが……w
まあでも高知は現存だし、掛川をモデルにしてるし、それを逆にしただけだからいいでしょうw
ということで、訪れる際は貴重な天守であることを感じながら天守に登ってみてください。
そして高知城の写真か何かと見比べてみてください。外観はほぼ一緒ですからw
次に2つ目を紹介したいところなのですが、都合により2つ目のすごいところは明日紹介させていただくことにします。
それではまた、よろしくお願いします。