大納言メモ

好きな事について気楽に書いていきます。

街道の歩き方

こんにちは!


今日は、先日訪れた気賀関所堀川城跡について書きたいと思います。

お城よりも関所がメインになるかと思うので、タイトルを変えてみましたw

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(江戸方面から)


みなさんは気賀関所ってご存知ですか?

私が気賀関所を知ったのは、3年くらい前に大河ドラマ「おんな城主直虎」で気賀が登場したことがきっかけでした。

それまではそもそも気賀すらどこなのかよくわかっていませんでしたw

まずはそんな気賀関所をご紹介したいと思います。


気賀関所浜松市北区細江町気賀にあります。

気賀は浜名湖の北に位置し、井伊谷の入り口にもあたる場所です。

気賀はかつて東海道脇往還である「姫街道」が通っており、宿場町として栄えていました。

脇往還ということは本通は別にあったということですね。

姫街道浜名湖の北を通るのに対し、東海道の本通は浜松を過ぎると浜名湖の南を通っていました。

浜名湖の南は海と繋がっており、「今切の渡し」で渡河(渡湖?)して新居へ。そして三河吉田(豊橋)へ続きます。

浜名湖は、大地震天竜川の運ぶ土砂によって徐々に入り口が狭まってきていますが、昔は今よりも海と繋がる部分が広かったため、船で行き来していたわけですね。

一方姫街道の方はというと、遠江見付宿(磐田)から浜名湖の北を通って三河御油宿に繋がるルートでした。

脇往還とは言いつつも、渡しを避けたい人には人気のルートだったようです。

よって徳川幕府浜名湖の南には新居関所、北の姫街道には気賀に関所を設けて「入り鉄砲に出女」の監視をしていました。

そしてパンフレットによると、気賀関所は新居、箱根と並んで東海道大関所の一つだそうです😳(全然知らなかった…)

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(京方面から)


そんな脇往還がなぜ姫街道と呼ばれているのか、名前の由来を見ていきたいと思います。


それはある出来事がきっかけでした。発端は宝永4年、東海地方を大地震が襲います。(富士山が噴火したやつです🌋)

これによって、東海道浜名湖南ルートの新居関所や街道沿いの町屋は大破してしまいました。(おそらく津波が酷かったでしょうね…)

したがって、翌日から東海道の通行人はみんな姫街道を通るようになりました。

元々脇往還ですから宿場の機能も小規模だったのでしょうか。街道沿いの人々は日夜街道の使役に駆り出されて、農地の手入れはもちろん、復興にも手が回らない状態でした。

これでは困る!と領主や庄屋たちは幕府に陳情し、享保2年からは特別な事以外で大名や旗本が脇往還を通ることを幕府は禁止しました。

これによって脇往還は今切を嫌う婦女子、大名の貴婦人、宮家、公家などしか通らなくなったそうです。

このことから「姫街道」の名がついたと言われています。

ちなみに今でも街路の標識には姫街道の名が残っています。

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写真は物見の櫓です。

登ることもできます。(景色はあまり…)

関所内には様々な資料が展示してありました。

門や柵の中はそれほど大きくはありません。

以前、箱根の関所に行ったことがあるのですが内部は大体同じ感じです。

多少規模に差がありますけどね。

でもここで1日何十、何百と人が来たら捌くの大変だろうなと思いますねぇ。

関所待ちの行列が出来てしまいます。

現代人ならすぐクレームをつけるでしょうねw

イミグレーションが1箇所しかなかったら腹立ちますもんねw


いやでも、やっぱり腹立たしさより緊張が勝るのかな?

何も悪いことしてなくても緊張しますねきっと。

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今も昔も関所は時間になると門が閉ざされます。

この日はちょうど終わり際に行ったので開閉両方の姿を見ることができました。



関所を見終わった後は近くにあった堀川城趾を見に行きました。

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田んぼの一角に城址の碑と首塚があります。

堀川城は永禄11年から始まる徳川家康遠江侵攻で今川方と激戦が繰り広げられた城です。

今川方といっても戦い慣れた兵隊は少なく、ほとんどが近隣の土豪や農民でした。

大河ドラマ「おんな城主直虎」でもこの戦いが描かれていましたね。

もともと気賀は商人が自治を行なっていた町でした。

徳川に占領されることで、自治が認められなくなることを恐れて敵対行動にでたのかもしれません。

結果は悲惨なものになりました。

徳川方は城に立て篭もった人々を撫で斬りにし、今川方の城兵はほぼ全滅で落城しました。

城からかろうじて逃げた者もいましたが、徳川軍は追っ手を放ち、捕まえた者を打ち首としました。

首が並べられたところは獄門畷と呼ばれ、現在も石碑が建てられています。

洗練された徳川軍が、庶民の多く篭る堀川城を撫で斬りのうえ落城させ、敗残兵まで皆殺しにしたこの戦いは、家康の人生のなかで最も残虐な戦いと言われており、天下人生涯の汚点ともされています。


今川家の本拠である駿河は早々に武田の手に落ちたイメージがありますが、遠江では所々で粘り強く抵抗していたようです。

「直虎」を見る限り、奥浜名湖(井伊谷・気賀)は今川家から圧迫を受け、決して良好な関係であったとは思えない描かれ方がされていましたが、実際はどうだったでしょうか。


もう一度詳しく晩年の大名今川家も調べてみたいなと思います。



それではそろそろ終わりにしたいと思います。

気賀は比較的アクセスしやすい場所です。

車ではもちろん、今日紹介した関所や堀川城天竜浜名湖鉄道気賀駅から徒歩でも回ることができます。

時間があれば井伊谷にも足を運んでみてください。

姫街道周辺は宿場の名残がよくわかります。

あと、奥浜名湖はみそまんが有名です。

ぜひお土産に!


では、またよろしくお願いします。

ありがとうございました!