大納言メモ

好きな事について気楽に書いていきます。

県内の城を歩こう!#24天方城

こんにちは!


今日も暑いですね🥵

酷暑とコロナでなかなか城巡りが再開できず、ネタ切れが心配になってきましたw


城とは関係ない歴史ネタとかも書いたりするんですが、やっぱり城の方が評判がいいようです。


読んでくださるだけでありがたいんですけどね🙏


ということで、今日も城のネタを書こうと思います。

今日は静岡県森町にある天方城を取り上げたいと思います!

前回の#23久野城に続き、これまた県内の城の中ではマイナー目なお城ですが、戦場になった回数は比較的多いお城で、遠州の覇権を争う武田・徳川の争奪戦に巻き込まれたお城になります。

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ちなみに、天方城は本城(古城)と新城と呼ばれる二つの城があります。

本城(古城)よりも防御性を高めるために新たに築城したのが天方新城になります。

今回取り上げるのは新城の方です。


天方新城は天方通興が築いた山城です。

通興は今川の支配下にあり、勇将として知られていましたが、桶狭間の戦い後に今川の勢力が衰えると、天方城の位置する遠州は浜松を中心に徳川勢力下に入ることになりました。

しかし、通興は家康に従わず敵対し続けたため、榊原康政・大久保忠隣ら徳川軍と戦になりました。

結果は、奮戦したものの力及ばず敗北、開城となりました。

一旦は家康に従う気を見せた通興でしたが、「下知に従わずに兵を集めている」との理由から、再び榊原康政大須賀康高らに攻め込まれ降伏。

ようやく徳川の支配下に入りました。


しかしその3年後の元亀3年、今度は武田信玄が4万の大軍で遠江に侵攻。

天方城は戦わずして降伏します。


翌年の天正元年、徳川は天方城奪還のため攻撃を決行。

平岩親吉を将とした徳川軍が本丸まで攻め入り、3日ほど包囲したところで降伏。


遠江国風土記傳には、のちにまた甲州(武田)の持城になったが、天正2年に家康が攻め寄せ、軍兵を配置したとの記述があるようです。



この記述が正しければ、10年も経たぬ短期間に徳川に4回、武田に2回攻められていることになります。

(今川ー徳川ー謀反ー徳川ー武田ー徳川ー武田ー徳川)

これだけ勢力が変わっても天方氏が処断された形跡がないのがまた興味深いところです。

徳川に背いても武田に寝返っても城主は天方氏でした。(武田は久野弾正を城に残していましたが…)

しぶといというか…狡猾というか…ある意味世渡り上手というか…どこか魅力的にも感じてしまうw


それにしても徳川に4度も攻め落とされた城って他にあるのでしょうかww


私は見せる城よりも実戦経験の多いお城の方が好きなので、楽しく見て回ることができました!

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城跡は公園になっています。

駐車場は整備されていますが、そこにたどり着くまでの山道は狭いので気をつけてください!

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外堀は駐車場によって一部破壊されていますが、内堀は綺麗に残っています。

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私のような土塁好きはつい駆け上がりたくなってしまうような素晴らしい土塁ですが、堀には入らないようにしてください。

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展望台からは遠州を一望することができます。

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磐田原台地と、その向こうに広がる天竜川の育んだ平野を見ることができます。

写真を拡大すると遠くにタワーが見えるのですが、おそらくこれが浜松駅の場所になります。


徳川軍が浜松から出陣して迫ってくる様子が手にとるようにわかったことでしょう。

なかなかいい立地です。




立地と土塁が素晴らしかったので、個人的にとても楽しい城でした🏯



以上で天方城は終わります!

またよろしくお願いします。

今回もありがとうございました!

県内の城を歩こう!#23久野城

こんにちは!

 

今日は久しぶりの城投稿ですw

久野城を取り上げたいと思います。

 

みなさんは「久野城」を知っていますか?

私は最近まで知りませんでしたw

でも実際に行ってみると、見どころが多くとても気に入りました!

 

この久野城、『藩翰譜』という資料には、「当国第一の要害にしてたとい何万騎を差し向けても落つべくも見えず」と書かれているらしく、かなり堅固な城であったことが窺えます。

久野城は現在の静岡県袋井市。国名でいうと遠江国にあたります。

遠州の堅城といえば、#4でも紹介した高天神城が思い浮かびますが、久野城は「当国一の要害」ということで、高天神を凌ぐくらいの堅い城であったのかもしれません。

 

そんな久野城の堅固さは現在でも窺い知ることができます。

高天神城が急峻な山城であったのに対し、久野城は城内部が小高い丘になっており、城外は湿地に囲まれている平山城でした。

久野城の周囲は宅地開発がそれほど進んでおらず、当時の地形が想像しやすいことに加えて、現在でも一部湿地となっています。

また、城内には整然と区画された曲輪、土塁、堀、そして井戸なども残されており、城の中も外も大変見ごたえがあるお城でした!

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(城の大手)

久野城は、今川氏が遠江侵攻の拠点として築城したと考えられています。

城主は在地の領主であった久野氏で、今川に従って数々の戦で戦功をたてたと言われています。

桶狭間の戦いで久野元宗が討ち死すると、弟の宗能が家督を継ぎ、永禄11年には遠州に進出した徳川家康に属することになりました。

徳川に属してからも、掛川城攻め、高天神城攻め、小牧長久手の戦いで武功をたてましたが、家康の関東移封に伴い、下総に転封となりました。

徳川旧領の諸城が軒並み豊臣恩顧の武将に与えられると、久野城も秀吉とのゆかりがある松下氏が城主となりました。

1603年、久野宗能は久野城主に復帰しますが、宗成の代に徳川頼宜の家老として紀州入りしたため、代わりに北条氏重が城主となります。

1640年、北条氏が関宿に転封となると、城は横須賀藩預かりとなり、1644年に廃城になったそうです。

 

 

久野城は比較的よく整備されていて、パンフレットも常備されています。

コンパクトな城で見学もしやすくなっています。

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(大きな土塁)

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(高低差がよくわかる)

おすすめポイントは、とにかく城地と湿地との区別がよくわかるため、いかに攻めづらい城であったかということが体感できるというところです。

名の知れたお城も良いですが、整備がしっかりしてあって当時の名残が見られるお城、昔をイメージしやすいお城が良いですよねぇ。

 

すごく楽しくまわることができました。

 

 

本日はここまでにします!

ありがとうございました!

遺産は保存か?破壊か?

こんにちは!

ついに梅雨が明けて8月になりました!

とても暑いですね・・・

 

8月になると、テレビでは終戦記念日にちなんで、戦争の体験談を語るドキュメンタリーやドラマが放送されますね。

たまに見ます。

 

昨日も深夜に、ある戦争体験を語るドキュメンタリー番組が放送されていました。

私は途中からでしたが、さらっと見させてもらいました。

今日は少しその話をしたいと思います。

 

 

内容は、広島にある煉瓦造りの古い建物を保存するかどうか、というものでした。

その建物は、陸軍被服支廠の跡で、戦時中は軍服や靴を作っていたところだそうです。

番組には、当時被服支廠で働いていた女性が登場し、その頃の広島の様子を語ってくれていました。

 

被服支廠跡は煉瓦造りであったため、原子爆弾の爆風による倒壊は免れましたが、現在は崩落の危険があるため、保存するためには耐震工事が必要です。

莫大な費用をかけて保存をするのか、それとも破壊して別の土地利用をするのか・・・

地元でも意見が割れているようでした。

 

ある地元住民は、「原爆ドームがあるのだからこれはいらない」「(原爆ドームから距離があるため)ここまで見に来る人はいない」と述べていました。

 

全国どこもそうですが、遺産の保存問題にはどうしても地元と世間とでギャップが生まれるような気がします。

歴史好きから見れば「保存するに決まっている」と思う遺産であっても、地元民から見れば「破壊に決まっている」と。

そしてその逆もあるだろうと思います。

観光でたまに行く人と、常に生活圏に遺産が入ってくる人とでは考えが違うのは当たり前なのかもしれません。

負の遺産であればなおさらです。

それに、文化財となると保護義務が発生します。

保護していかなければならないのは地元住民なんですよね・・・

 

普通この手の番組は、「戦争を忘れてはならない」という趣旨で制作されると思うので、遺産の保存派にばかりフォーカスすると思いましたが、反対派(破壊派)の意見も取り入れていて、文化財の認定や保護が一筋縄ではいかない様子を見られて興味深いなぁなんて思いながら視聴していました。

 

ところで、先ほどの被服支廠で働いていた女性はどっち派なのだろうと気になるところですが、彼女は保存派でした。

「思い入れが強いのだから当然だろう」と思われるかもしれませんが、ただ思い出を残すために保存を主張している訳でもなければ、原爆を知る数少ない遺産だから・・・という理由だけでもありません。

 

その女性はインタビューで「軍都」という言葉を何度か使用していました。

「軍都」とは、軍の司令部や兵舎、工場などが集中して立地する都市のことを指します。

広島は明治維新以降、鎮台(師団)がいち早く置かれ、日清戦争時には、広島城に臨時の大本営が移転。港からは大陸へ多くの兵員や物資が送り込まれるなど、国内の前線基地として機能し、太平洋戦争まで着々と軍都の体裁が整えられていきました。

 

そんな広島に新型爆弾が投下されました。

軍需工場が集中していることが広島選定の理由の一つであったそうです。

 

 

それらを踏まえた上でその女性は保存派の立場をとります。

陸軍被服支廠は原爆の被害者としての悲惨さだけを伝えるものではない。

なぜなら、被服支廠は軍都広島にあった軍需工場の一つであり、原爆投下までは加害者の立場にもなりうる存在であったから・・・

 

確かに、これまで原爆ドームを見るとき、「こんな悲劇を二度と起こさせない」という被害者の立場で語られることが多く、広島が軍都であったことにはあまり触れられていないような気がします。

もちろんそれが悪いということではありません。(そもそも原爆ドームは軍需工場などではないので)

実際に、広島の人々は戦争の被害者でもあるし、人類史上最初の核兵器使用の被害者でもあることに間違いありません。

ただ私は、自分の想像していなかった意見を聞けたことに加えて、当事者がそのような発言をしていることに心を大きく揺さぶられましたし、考えさせられました。

被害者の遺産でもあれば、加害者の面も持つ遺産である。

遺産の持つその両面を語り継ぐべきである。

そういう考え方があるのだなと・・・

 

 

 

私は、被服支廠跡には、原爆ドームとは異なる意味合いがあり、存在意義のある建物なのではないかと思いました。

みなさんはどうお考えになりますか。

三棟あるうち一つだけを残す・・・とか様々な案があるようですが、行政はどのように判断するのでしょうか。

今年度中には結論がでるみたいなので注目したいと思います。

 

 

それでは今日はこの辺で!

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

街道の歩き方

こんにちは!


今日は、先日訪れた気賀関所堀川城跡について書きたいと思います。

お城よりも関所がメインになるかと思うので、タイトルを変えてみましたw

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(江戸方面から)


みなさんは気賀関所ってご存知ですか?

私が気賀関所を知ったのは、3年くらい前に大河ドラマ「おんな城主直虎」で気賀が登場したことがきっかけでした。

それまではそもそも気賀すらどこなのかよくわかっていませんでしたw

まずはそんな気賀関所をご紹介したいと思います。


気賀関所浜松市北区細江町気賀にあります。

気賀は浜名湖の北に位置し、井伊谷の入り口にもあたる場所です。

気賀はかつて東海道脇往還である「姫街道」が通っており、宿場町として栄えていました。

脇往還ということは本通は別にあったということですね。

姫街道浜名湖の北を通るのに対し、東海道の本通は浜松を過ぎると浜名湖の南を通っていました。

浜名湖の南は海と繋がっており、「今切の渡し」で渡河(渡湖?)して新居へ。そして三河吉田(豊橋)へ続きます。

浜名湖は、大地震天竜川の運ぶ土砂によって徐々に入り口が狭まってきていますが、昔は今よりも海と繋がる部分が広かったため、船で行き来していたわけですね。

一方姫街道の方はというと、遠江見付宿(磐田)から浜名湖の北を通って三河御油宿に繋がるルートでした。

脇往還とは言いつつも、渡しを避けたい人には人気のルートだったようです。

よって徳川幕府浜名湖の南には新居関所、北の姫街道には気賀に関所を設けて「入り鉄砲に出女」の監視をしていました。

そしてパンフレットによると、気賀関所は新居、箱根と並んで東海道大関所の一つだそうです😳(全然知らなかった…)

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(京方面から)


そんな脇往還がなぜ姫街道と呼ばれているのか、名前の由来を見ていきたいと思います。


それはある出来事がきっかけでした。発端は宝永4年、東海地方を大地震が襲います。(富士山が噴火したやつです🌋)

これによって、東海道浜名湖南ルートの新居関所や街道沿いの町屋は大破してしまいました。(おそらく津波が酷かったでしょうね…)

したがって、翌日から東海道の通行人はみんな姫街道を通るようになりました。

元々脇往還ですから宿場の機能も小規模だったのでしょうか。街道沿いの人々は日夜街道の使役に駆り出されて、農地の手入れはもちろん、復興にも手が回らない状態でした。

これでは困る!と領主や庄屋たちは幕府に陳情し、享保2年からは特別な事以外で大名や旗本が脇往還を通ることを幕府は禁止しました。

これによって脇往還は今切を嫌う婦女子、大名の貴婦人、宮家、公家などしか通らなくなったそうです。

このことから「姫街道」の名がついたと言われています。

ちなみに今でも街路の標識には姫街道の名が残っています。

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写真は物見の櫓です。

登ることもできます。(景色はあまり…)

関所内には様々な資料が展示してありました。

門や柵の中はそれほど大きくはありません。

以前、箱根の関所に行ったことがあるのですが内部は大体同じ感じです。

多少規模に差がありますけどね。

でもここで1日何十、何百と人が来たら捌くの大変だろうなと思いますねぇ。

関所待ちの行列が出来てしまいます。

現代人ならすぐクレームをつけるでしょうねw

イミグレーションが1箇所しかなかったら腹立ちますもんねw


いやでも、やっぱり腹立たしさより緊張が勝るのかな?

何も悪いことしてなくても緊張しますねきっと。

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今も昔も関所は時間になると門が閉ざされます。

この日はちょうど終わり際に行ったので開閉両方の姿を見ることができました。



関所を見終わった後は近くにあった堀川城趾を見に行きました。

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田んぼの一角に城址の碑と首塚があります。

堀川城は永禄11年から始まる徳川家康遠江侵攻で今川方と激戦が繰り広げられた城です。

今川方といっても戦い慣れた兵隊は少なく、ほとんどが近隣の土豪や農民でした。

大河ドラマ「おんな城主直虎」でもこの戦いが描かれていましたね。

もともと気賀は商人が自治を行なっていた町でした。

徳川に占領されることで、自治が認められなくなることを恐れて敵対行動にでたのかもしれません。

結果は悲惨なものになりました。

徳川方は城に立て篭もった人々を撫で斬りにし、今川方の城兵はほぼ全滅で落城しました。

城からかろうじて逃げた者もいましたが、徳川軍は追っ手を放ち、捕まえた者を打ち首としました。

首が並べられたところは獄門畷と呼ばれ、現在も石碑が建てられています。

洗練された徳川軍が、庶民の多く篭る堀川城を撫で斬りのうえ落城させ、敗残兵まで皆殺しにしたこの戦いは、家康の人生のなかで最も残虐な戦いと言われており、天下人生涯の汚点ともされています。


今川家の本拠である駿河は早々に武田の手に落ちたイメージがありますが、遠江では所々で粘り強く抵抗していたようです。

「直虎」を見る限り、奥浜名湖(井伊谷・気賀)は今川家から圧迫を受け、決して良好な関係であったとは思えない描かれ方がされていましたが、実際はどうだったでしょうか。


もう一度詳しく晩年の大名今川家も調べてみたいなと思います。



それではそろそろ終わりにしたいと思います。

気賀は比較的アクセスしやすい場所です。

車ではもちろん、今日紹介した関所や堀川城天竜浜名湖鉄道気賀駅から徒歩でも回ることができます。

時間があれば井伊谷にも足を運んでみてください。

姫街道周辺は宿場の名残がよくわかります。

あと、奥浜名湖はみそまんが有名です。

ぜひお土産に!


では、またよろしくお願いします。

ありがとうございました!


県内の城を歩こう!#22 田中城

こんにちは!

今回は田中城を取り上げたいと思います。


最近は大河ドラマの影響もあり、明智光秀に関連する近江の田中城がよくテレビで取り上げられています。

伊豆や肥後にも田中城があるそうですが(よくある名前w)、こちらは駿河の田中城です。

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田中城は静岡県藤枝市にあったお城です。

戦国期に築城され、江戸時代には田中藩の藩庁として利用し明治まで存在していました。

田中城は「#20小川城」でも触れたように、今川氏の築いた徳一色城が前身となっています。

武田の駿河侵攻によって徳一色城が武田支配下に入ると、武田氏は城の名を田中と改めました。

同心円状に4重の堀を巡らせるという特徴的な形をした平城で、別名亀甲城とも呼ばれます。

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(駿河国田中城絵図)


城の近くには東海道藤枝宿があるため、藩政時代には主だった城下町整備はされず、宿場町が城下町を兼ねるように設計されました。

城の玄関口である大手は宿場側に向けて設けられ、東海道に直結するように大手道が整備されました。


田中城は山西地域(西駿河)の中心的な城であったこと、特異な形であったことなどから広く知られることになりますが、甲州流軍学の傑作としても知られていました。

江戸時代、「小さく、丸く」という甲州流築城術の詰まった田中城は武士たちのテキスト的城でもあったようです。

また、田中城は三英傑全員が立ち寄ったことのある城としても知られています。

織田信長は武田征伐の帰りに、豊臣秀吉は北条征伐で小田原へ向かう途中に、徳川家康は鷹狩りのために度々訪れていました。

家康は晩年、鯛の天ぷらを食べて腹を壊し亡くなったという話が有名ですが、腹痛の症状が出たのは鷹狩りで田中城を訪れていた時でした。

(食あたりとも言われていますがどうやら胃がんだったようです)

そんな、昔は有名!今はそうでもない?という感じの田中城を紹介したいと思います。



では田中城の歴史を追っていきたいと思います。

田中城の前身である徳一色城は15世期頃に今川氏の命を受けた土豪・一色信茂が居館を拡大させて城にしたことから始まります。

丸い形が特徴的な田中城ですが、この頃は方形で2重の堀を持つ城(というより館)でした。

16世期中頃には「#20小川城」主であった長谷川正長が城主となりました。

1570年、甲斐の武田信玄が山西地域(西駿河)に侵入し「#19花沢城」が激戦の末落城すると、正長は徳一色城を明け渡し遠江へ退去しました。

城を手に入れた信玄は馬場信春に命じて改修に着手し、城の守りを堅固にするとともに城の名を田中城と改めて遠江に対する戦略的な拠点として位置づけました。

ここで馬場信春は3重目の堀と6つの馬出(三日月堀)を築き、円形の城となりました。


1575年、長篠の合戦で武田軍が敗退すると徳川家康遠江駿河の武田方諸城を攻略にかかります。

徳川軍は田中城周辺にいくつもの砦を築き、麦や稲を青刈にする苅田作戦を行いましたが、湿地に囲まれ防御に優れた田中城をなかなか攻略することができませんでした。

ようやく攻略できたのは1582年。

武田方の城将依田信蕃は徳川方による度々の攻撃を退け開城勧告を拒絶していましたが、「#16江尻城」主穴山梅雪が謀反を起こすと田中城は完全に孤立。

穴山梅雪による開城勧告と勝頼自刃の報を受け、ようやく開城することを決意し城を明け渡します。

ちなみに依田信蕃はこの時家康に召抱えのお誘いを受けますが、「お館様(勝頼)の安否の詳細がわからないうちにそのようなことはできない」と謝絶したといいます。(う〜ん!素晴らしい武将👏)


結果、徳川方は1575年の反撃開始から田中城攻略まで7年の歳月を費やしました。

これが田中城が名城とされる1つの所以です。


江戸時代に入ると田中藩の藩庁が置かれ、12氏21人の城主が入封・転封を繰り返しました。

酒井家・水野家・松平家等、譜代の大名が1万から5万石で城主を務めていきますが、1730年からは本多家4万石の領地となりました。

幕末には、領地に海岸線をもっていた田中藩は幕府の命により海岸防備を強化させ、駿河湾にあらわれた外国船に対し出動することもありました。

田中藩は大砲の鋳造も行っており、その大砲を薩摩藩が所望したという逸話も残っているそうです。

明治になると駿河遠江全域が徳川家達領となったため、本多家は安房国へ転封し田中藩は廃止されました。




さて、田中城について語られるエピソードの1つに家康が度々鷹狩りに来ていた話があります。

駿府城に在城していた時代、田中までわざわざ出かけてきて鷹狩りをしたという話です。

本当に家康は鷹狩りが好きだったんですねw 

しかし鷹狩りで田中城を訪れている最中に体調を崩した家康は一旦駿府へ帰城しますが、病状が回復することはなく死去しました。

田中城は家康が最期に訪れた城でもあるのです。


田中城周辺には御成街道と呼ばれた道がありました。

家康が田中城に立ち寄る際に通った道のことです。

城の北東側(駿府・江戸方面)の平島木戸に通じていました。

この平島木戸は江戸時代はじめまで城の正門として機能していました。

しかし、初代田中藩主酒井忠利は城の北を通る東海道に向けて新たに大手門を造ったため、以降藩主は北側の大手門・松原木戸から出入りするようになりました。

田中城には3代将軍家光の代まで上洛の際に御成があったと言われているので、それまでは平島口が使われていたようですが、以降は開かずの門となってしまったようです。

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現在の田中城は下屋敷のみが残され、そこに本丸櫓や茶室・仲間部屋などが移築・展示されています。

しかし周囲を歩くと城の名残を所々に見ることができます。


下屋敷と城の間には六間川という川が流れていました。

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(六間川)

この川は四の堀と繋がっていて、堰き止めると浮城になったそうです。

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平島一之門(通称、不開門)の外側にあった馬出曲輪と三日月堀の跡です。

残念ながら三日月堀の跡は標識でしか確認できませんが、写真奥に三の丸を囲っていた土塁が見えます。

住宅地に突如土塁が現れるとても面白い街ですw

堀跡に沿うように道路が敷かれていますから、絵図と照らし合わせながら歩くのも比較的簡単で楽しいです。

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平島一之門から御成街道方面を撮った写真です。

奥に見える山を越えて家康は鷹狩りに来ました。

おそらく信長も秀吉もこの道を通ったと思います。

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三の丸の土塁です。

この一画は空き地で見学スポットとなっています。

当時は家老クラスの屋敷が並んでいました。

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こちらは城西側にある三之堀と土塁です。

田中城で最もよく残っている箇所ではないかと思います。

テレビで紹介される際も必ず撮影される場所です。

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大手二之門跡には木橋が架けられています。

この橋のすぐ外側にも馬出があったようですが、今では「三日月堀跡」の標識がポツンと建つだけで名残もわかりません。

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結局馬出は残ってなかったな、そう思ってとぼとぼ帰ろうとした時、このような解説版を見つけました。

辺りを見回すと…

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三日月堀らしき傾斜が!!

これが今回1番盛り上がった瞬間ですw

馬出し部はお家になっています。

それにしても丸馬出に住んでるなんて…いいなw


こうして散策を終えました。

私は城の建造物も好きですが、やっぱり土塁!そして今は住宅地となってしまった二の丸・三の丸に残る痕跡!城下町を含めた守りの工夫!

こういうのが好きなんだなと改めて感じました。

今回の散策は本当に楽しかった。



そろそろ#21田中城を終わりにしたいと思います。

田中城は本丸跡に学校が建てられ今では住宅地の中ですが、戦後まで城の形はクッキリとしていました。

航空写真でみても円形の城と街路がよくわかりますが田園のなかに突如現れる渦は異様です。

現在でもスマホの地図やカーナビで見ると城の跡がよくわかります。

訪れる際には是非一度城内を車で貫いてみてくださいw

ただ、道幅は狭くカーブが続く見通しの悪い道ですのでスピードの出し過ぎには注意が必要です。

でも見通しが悪いのは城としての仕事をしっかり果たしてる気がしていいなぁと思ってしまいますw

遠見遮断。

これが城下町づくりの鉄則ですからね。

さらにそれが鉤形とかではなくずっとカーブを描いているというのも、何か武田の術中にハマっているような気がして面白いです。(楽しみ方がマニアックすぎるかもしれませんww)

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(カーブする街路 三の丸堀部)

とにかく、攻城される際は安全運転でお越しください。

駅からバスも出ていると思いますのでぜひ。


以上で終わりたいと思います。

またよろしくお願いします。

ありがとうございました!


県内の城を歩こう!#21 相良城

こんにちは!

久しぶりの投稿になります。

今回は相良城を取り上げたいと思います。

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相良城は静岡県牧之原市相良にあったお城です。

現在は城跡に市役所や資料館・学校などが建ち当時の面影はほとんどありません。

ただ、一部川沿いに河岸の石垣が残っており、周囲を散策すればかろうじて遺構が見られるかな、といった具合です。

まあこれにはある理由があるのですが…後ほど詳しく。


ところで相良(さがら)という名前をどこかで聞いたことありませんか?


昔九州に相良氏という一族がいました。

ここ数日の大雨で甚大な被害に遭われた「人吉」を治めていたのが相良氏です。

実はこの相良氏はもともと静岡の相良出身なんです。

初代から5代まで約82年間相良に住み、7代相良頼景の時代に九州球磨郡多良木、8代相良長頼の時代に人吉に移っていきました。


ニュースで人吉城下を見る機会が多かったですので、今回は相良氏ゆかりの地である静岡県相良の城を取り上げることにしました。



相良城は萩間川の河口に位置する平城で、駿河湾を経由した水運に長けた城であったと思われます。

上述した相良氏の時代にはまだ城はなく、最初に築城されたのは1576年と言われています。

築城したのは武田勝頼です。

相良城は「#6小山城」や「#7諏訪原城」のように「#4高天神城」への重要な輸送拠点として機能していました。

初代相良城が築城される5年前、そこから少し離れたところに勝頼の父信玄によって滝堺城が築城されており、すでに当地は武田の支配下にありましたが、「#16江尻城」や「#17持舟城」でも書いた通り勝頼は駿河支配に水軍を非常に重要視していた節があるので、滝堺城より水軍の活かせる相良城を新たに築いたのではないかと私は思っています。


徐々に武田の勢力が弱まると相良は徳川家の支配下に入ります。

家康は勝頼の築いた相良城を改築して相良御殿と称したそうです。

1610年には鷹狩りのために宿泊したという記録もあります。(ほんとに鷹狩り大好きw)

江戸時代当初は駿府藩掛川藩に所属していた相良ですが、1710年に相良藩が置かれることになります。

本多家や板倉家が藩主を務めた後、1758年に田沼家が相良藩主となります。

教科書でもお馴染みの江戸4大改革を進めたうちの1人、老中田沼意次です。

意次が藩主になったのは39歳の時で所領は1万石でしたが、歳を重ねるごとに加増を受け、最盛期には5万7千石の大名となりました。

石高が増えたことでそれ相応の城が必要となった意次は相良城の大改修に着手します。

築城開始から12年かけて老中に相応しい城郭が完成しました。

東海道に繋ぐ通称「田沼街道」を整備するなど城下町の整備も進みました。

相良城の管轄する相良湊は、遠州地方の積出港であったため相良は非常に栄えました。

また、塩の道の起点もこの相良にあります。

塩の道とは遠州相良から内陸の信州まで天竜峡に添いながら北上する街道です。

戦国時代には今川氏真が甲斐・信濃との塩のやりとりを制限し、塩不足になった武田領に上杉謙信から塩が贈られる、いわゆる「敵に塩を贈る」の逸話となったことでも知られています。

生きるために必要な塩が運ばれる街道として非常に重要視されていました。

「塩の道」という街道名やその終着点の地名に「塩尻」(長野県)と残ることからもそれが窺えると思います。

そんな主要街道の始発点として相良は栄えていました。



しかし大きな事件が発生します。

意次は幕府内での政権争いで失脚し、老中を免ぜられ相良城を没収させられたのです。

相手はこれまたお馴染みの松平定信です。

政敵であった定信は田沼の政治を徹底的に否定しました。

現在でも田沼の政治に良いイメージが持てない人が多いのはこのためです。

ですが実際は経済を重視した画期的な方法で幕府の財政を好転させていました。

しかし相次ぐ天災に見舞われ財政が悪化してしまったのです。

これを好機と見た定信は田沼の政治を批判。

反田沼運動が起こり意次は失脚へと追い込まれました。

晩年の意次は、嫡子が殺害され、将軍からも見放されるなど立て続けに不幸に襲われました。

おそらくノイローゼのような状態だったのだと思われます。

相良城跡に建つ牧之原資料館には意次の書き遺した書状が展示されていますが、「なぜ全てを上様・幕府のために尽くしてきた私がこのような目に遭うのか」と、無念さが感じられる内容です。

将軍との関係が急速に冷え込んだことには本人も理由がわからず驚いていたようです。

これも定信の策略だったのかもしれません…


松平定信はとにかく田沼色を消しさろうと相良城の取り壊しを行います。

遺構が少ない理由とはこのためです。

なにか豊臣家と徳川家の関係に似たようなものを感じます。

でも実際に私たちは田沼意次が汚い政治をしていたと思い込んでいますから、定信のイメージ戦略は一応成功したわけです。

しかし!

定信の政治は全然うまくいきませんでした。(私情も含まれていますw)

江戸時代の人々はこんな歌を残しています。


「田や沼や 濁れる御世をあらためて 清く澄ませ 白河の水」


白河とは白河藩主の松平定信を指します。

老中就任時には潔白な政治を!と期待されていた定信ですが、実際に改革を始めるとあまりに厳しい取り締まりで逆に反感を買うことになりました。

そして、


「白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」


と、田沼時代の方が良かったなと揶揄されるようになります。


出る杭は打たれると言いますが、意次はまさしくその杭で、政敵定信によって打たれてしまいました。

地震・噴火・飢饉など立て続けに起こった天災がもし無ければ、田沼の改革が成功していたかもしれません。

それにしても不運な男です…


若干判官贔屓なところがあるかもしれませんが、真実を知ろうとすることが大事だと思います。

今の歴史は勝者(定信)の歴史ではありませんか…?

意次が何を目指して何を実行したのか…

その詳しいことを知りたい方はぜひ相良城とその跡に建つ牧之原資料館に訪れてみてください。

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ちなみに相良を起点に藤枝で東海道に繋がる「田沼街道」や「田沼」という地名は現在でもあります。

本当に汚い政治をしていた悪者ならばその名が後世にまで残ることはないでしょう。

地元の人にとっては良いお殿様というイメージの方が強いのかもしれません。

車で相良城に行かれる方、バスで行かれる方は、田沼街道はほぼ当時のルートで相良まで行くことができると思いますからぜひ意次気分を味わってみてはいかがでしょうか。

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P.S

牧之原市は九州豪雨による災害をうけて、かねてからの協定に基づき人吉に職員の方を派遣しました。

相良氏が結んだ縁によるものです。

歴史は遠い昔の話と思いがちですが実は現代までずっと一本の線で続いていたりします。

歴史的な人のつながりというものも大事にしていきたいですね。

県内の城を歩こう!#20小川城

こんにちは!

今回は小川城を取り上げたいと思います。

前回に続きマイナー城になりますw

城跡には石碑と解説版があるのみで遺構すらほとんど残っていません。

現在は住宅街となっています。

あまり面白味が無いかもしれませんが城数を稼ぎたい方は是非w

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小川城は静岡県焼津市小川にあった城です。

志太平野に位置する平城で、長谷川氏が城主を務めていました。

戦国初期の城としては珍しい平城です。

小川城は小川湊を利用した物流を管轄していました。

発掘調査では中国大陸からの輸入品である青磁器等贅沢品が出土しており、長谷川氏は「山西の有徳人(西駿河の富豪)」と呼ばれるなど、貿易により栄華を誇っていました。



1476年(文明8年)、駿河守護の今川義忠が遠江の横地城(菊川市)へ侵攻。

猛攻を加え落城させたものの帰陣の途中で反撃に遭い、塩買坂で戦死してしまいます。

当主を失った今川家では家督争いが勃発。

義忠嫡男の龍王丸(後の今川氏親)は幼少だったため、一門衆の小鹿範満が優勢となります。

当時今川家臣であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)は義忠に嫁いでいた姉の北川殿とその子龍王丸を駿府から一時小川へ避難させました。

2人をかくまったことによって、以後長谷川氏は今川氏被官となりました。


長谷川元長の代には城に連歌師を招いて歌会を開くなど、高い教養も身につけていたことが窺えます。

その息子、長谷川正長の代になると新たに徳一色城(後の田中城、藤枝市)を築くことになり、小川城を離れて徳一色城主となりました。

父元長が今川義元とともに桶狭間で戦死すると、正長は今川氏真に仕えることになりますが、武田の駿河侵攻によって徳一色城も攻撃され、遠江に逃れます。

遠江へ逃れた後は、三河から進出してきた徳川家康に仕えるようになります。


その後、江戸時代も長谷川氏は続いていきました。

ちなみに、この長谷川氏の子孫は『鬼平犯科帳』に登場する「鬼平長谷川平蔵と言われています。


小川城で栄華を極めた長谷川家は徳一色城を任されるまでになりましたが、武田の侵攻によって一転、敗軍の将、亡国の遺臣となってしまいました。

しかし逃れた先で家康と出会い、代々徳川家に仕えて旗本となり、子孫は火付盗賊改役にまで登り詰めました。


長谷川氏について語られることはあまりありませんが、地元の英雄の1人として語り継いでいって欲しいなと思います。



短いですが小川城はここまでです。

訪れる際は住宅地ですのでお静かに。近隣の方の邪魔になるような路上駐車には十分気をつけてくださいね。

それではまたよろしくお願いします。

ありがとうございました!