県内の城を歩こう!#20小川城
こんにちは!
今回は小川城を取り上げたいと思います。
前回に続きマイナー城になりますw
城跡には石碑と解説版があるのみで遺構すらほとんど残っていません。
現在は住宅街となっています。
あまり面白味が無いかもしれませんが城数を稼ぎたい方は是非w
志太平野に位置する平城で、長谷川氏が城主を務めていました。
戦国初期の城としては珍しい平城です。
小川城は小川湊を利用した物流を管轄していました。
発掘調査では中国大陸からの輸入品である青磁器等贅沢品が出土しており、長谷川氏は「山西の有徳人(西駿河の富豪)」と呼ばれるなど、貿易により栄華を誇っていました。
1476年(文明8年)、駿河守護の今川義忠が遠江の横地城(菊川市)へ侵攻。
猛攻を加え落城させたものの帰陣の途中で反撃に遭い、塩買坂で戦死してしまいます。
当主を失った今川家では家督争いが勃発。
義忠嫡男の龍王丸(後の今川氏親)は幼少だったため、一門衆の小鹿範満が優勢となります。
当時今川家臣であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)は義忠に嫁いでいた姉の北川殿とその子龍王丸を駿府から一時小川へ避難させました。
2人をかくまったことによって、以後長谷川氏は今川氏被官となりました。
長谷川元長の代には城に連歌師を招いて歌会を開くなど、高い教養も身につけていたことが窺えます。
その息子、長谷川正長の代になると新たに徳一色城(後の田中城、藤枝市)を築くことになり、小川城を離れて徳一色城主となりました。
父元長が今川義元とともに桶狭間で戦死すると、正長は今川氏真に仕えることになりますが、武田の駿河侵攻によって徳一色城も攻撃され、遠江に逃れます。
遠江へ逃れた後は、三河から進出してきた徳川家康に仕えるようになります。
その後、江戸時代も長谷川氏は続いていきました。
ちなみに、この長谷川氏の子孫は『鬼平犯科帳』に登場する「鬼平」長谷川平蔵と言われています。
小川城で栄華を極めた長谷川家は徳一色城を任されるまでになりましたが、武田の侵攻によって一転、敗軍の将、亡国の遺臣となってしまいました。
しかし逃れた先で家康と出会い、代々徳川家に仕えて旗本となり、子孫は火付盗賊改役にまで登り詰めました。
長谷川氏について語られることはあまりありませんが、地元の英雄の1人として語り継いでいって欲しいなと思います。
短いですが小川城はここまでです。
訪れる際は住宅地ですのでお静かに。近隣の方の邪魔になるような路上駐車には十分気をつけてくださいね。
それではまたよろしくお願いします。
ありがとうございました!