県内の城を歩こう!#22 田中城
こんにちは!
今回は田中城を取り上げたいと思います。
最近は大河ドラマの影響もあり、明智光秀に関連する近江の田中城がよくテレビで取り上げられています。
伊豆や肥後にも田中城があるそうですが(よくある名前w)、こちらは駿河の田中城です。
戦国期に築城され、江戸時代には田中藩の藩庁として利用し明治まで存在していました。
田中城は「#20小川城」でも触れたように、今川氏の築いた徳一色城が前身となっています。
武田の駿河侵攻によって徳一色城が武田支配下に入ると、武田氏は城の名を田中と改めました。
同心円状に4重の堀を巡らせるという特徴的な形をした平城で、別名亀甲城とも呼ばれます。
(駿河国田中城絵図)
城の近くには東海道藤枝宿があるため、藩政時代には主だった城下町整備はされず、宿場町が城下町を兼ねるように設計されました。
城の玄関口である大手は宿場側に向けて設けられ、東海道に直結するように大手道が整備されました。
田中城は山西地域(西駿河)の中心的な城であったこと、特異な形であったことなどから広く知られることになりますが、甲州流軍学の傑作としても知られていました。
江戸時代、「小さく、丸く」という甲州流築城術の詰まった田中城は武士たちのテキスト的城でもあったようです。
また、田中城は三英傑全員が立ち寄ったことのある城としても知られています。
織田信長は武田征伐の帰りに、豊臣秀吉は北条征伐で小田原へ向かう途中に、徳川家康は鷹狩りのために度々訪れていました。
家康は晩年、鯛の天ぷらを食べて腹を壊し亡くなったという話が有名ですが、腹痛の症状が出たのは鷹狩りで田中城を訪れていた時でした。
(食あたりとも言われていますがどうやら胃がんだったようです)
そんな、昔は有名!今はそうでもない?という感じの田中城を紹介したいと思います。
では田中城の歴史を追っていきたいと思います。
田中城の前身である徳一色城は15世期頃に今川氏の命を受けた土豪・一色信茂が居館を拡大させて城にしたことから始まります。
丸い形が特徴的な田中城ですが、この頃は方形で2重の堀を持つ城(というより館)でした。
16世期中頃には「#20小川城」主であった長谷川正長が城主となりました。
1570年、甲斐の武田信玄が山西地域(西駿河)に侵入し「#19花沢城」が激戦の末落城すると、正長は徳一色城を明け渡し遠江へ退去しました。
城を手に入れた信玄は馬場信春に命じて改修に着手し、城の守りを堅固にするとともに城の名を田中城と改めて遠江に対する戦略的な拠点として位置づけました。
ここで馬場信春は3重目の堀と6つの馬出(三日月堀)を築き、円形の城となりました。
1575年、長篠の合戦で武田軍が敗退すると徳川家康は遠江・駿河の武田方諸城を攻略にかかります。
徳川軍は田中城周辺にいくつもの砦を築き、麦や稲を青刈にする苅田作戦を行いましたが、湿地に囲まれ防御に優れた田中城をなかなか攻略することができませんでした。
ようやく攻略できたのは1582年。
武田方の城将依田信蕃は徳川方による度々の攻撃を退け開城勧告を拒絶していましたが、「#16江尻城」主穴山梅雪が謀反を起こすと田中城は完全に孤立。
穴山梅雪による開城勧告と勝頼自刃の報を受け、ようやく開城することを決意し城を明け渡します。
ちなみに依田信蕃はこの時家康に召抱えのお誘いを受けますが、「お館様(勝頼)の安否の詳細がわからないうちにそのようなことはできない」と謝絶したといいます。(う〜ん!素晴らしい武将👏)
結果、徳川方は1575年の反撃開始から田中城攻略まで7年の歳月を費やしました。
これが田中城が名城とされる1つの所以です。
江戸時代に入ると田中藩の藩庁が置かれ、12氏21人の城主が入封・転封を繰り返しました。
酒井家・水野家・松平家等、譜代の大名が1万から5万石で城主を務めていきますが、1730年からは本多家4万石の領地となりました。
幕末には、領地に海岸線をもっていた田中藩は幕府の命により海岸防備を強化させ、駿河湾にあらわれた外国船に対し出動することもありました。
田中藩は大砲の鋳造も行っており、その大砲を薩摩藩が所望したという逸話も残っているそうです。
明治になると駿河・遠江全域が徳川家達領となったため、本多家は安房国へ転封し田中藩は廃止されました。
さて、田中城について語られるエピソードの1つに家康が度々鷹狩りに来ていた話があります。
駿府城に在城していた時代、田中までわざわざ出かけてきて鷹狩りをしたという話です。
本当に家康は鷹狩りが好きだったんですねw
しかし鷹狩りで田中城を訪れている最中に体調を崩した家康は一旦駿府へ帰城しますが、病状が回復することはなく死去しました。
田中城は家康が最期に訪れた城でもあるのです。
田中城周辺には御成街道と呼ばれた道がありました。
家康が田中城に立ち寄る際に通った道のことです。
城の北東側(駿府・江戸方面)の平島木戸に通じていました。
この平島木戸は江戸時代はじめまで城の正門として機能していました。
しかし、初代田中藩主酒井忠利は城の北を通る東海道に向けて新たに大手門を造ったため、以降藩主は北側の大手門・松原木戸から出入りするようになりました。
田中城には3代将軍家光の代まで上洛の際に御成があったと言われているので、それまでは平島口が使われていたようですが、以降は開かずの門となってしまったようです。
現在の田中城は下屋敷のみが残され、そこに本丸櫓や茶室・仲間部屋などが移築・展示されています。
しかし周囲を歩くと城の名残を所々に見ることができます。
下屋敷と城の間には六間川という川が流れていました。
(六間川)
この川は四の堀と繋がっていて、堰き止めると浮城になったそうです。
平島一之門(通称、不開門)の外側にあった馬出曲輪と三日月堀の跡です。
残念ながら三日月堀の跡は標識でしか確認できませんが、写真奥に三の丸を囲っていた土塁が見えます。
住宅地に突如土塁が現れるとても面白い街ですw
堀跡に沿うように道路が敷かれていますから、絵図と照らし合わせながら歩くのも比較的簡単で楽しいです。
平島一之門から御成街道方面を撮った写真です。
奥に見える山を越えて家康は鷹狩りに来ました。
おそらく信長も秀吉もこの道を通ったと思います。
三の丸の土塁です。
この一画は空き地で見学スポットとなっています。
当時は家老クラスの屋敷が並んでいました。
こちらは城西側にある三之堀と土塁です。
田中城で最もよく残っている箇所ではないかと思います。
テレビで紹介される際も必ず撮影される場所です。
大手二之門跡には木橋が架けられています。
この橋のすぐ外側にも馬出があったようですが、今では「三日月堀跡」の標識がポツンと建つだけで名残もわかりません。
結局馬出は残ってなかったな、そう思ってとぼとぼ帰ろうとした時、このような解説版を見つけました。
辺りを見回すと…
三日月堀らしき傾斜が!!
これが今回1番盛り上がった瞬間ですw
馬出し部はお家になっています。
それにしても丸馬出に住んでるなんて…いいなw
こうして散策を終えました。
私は城の建造物も好きですが、やっぱり土塁!そして今は住宅地となってしまった二の丸・三の丸に残る痕跡!城下町を含めた守りの工夫!
こういうのが好きなんだなと改めて感じました。
今回の散策は本当に楽しかった。
そろそろ#21田中城を終わりにしたいと思います。
田中城は本丸跡に学校が建てられ今では住宅地の中ですが、戦後まで城の形はクッキリとしていました。
航空写真でみても円形の城と街路がよくわかりますが田園のなかに突如現れる渦は異様です。
現在でもスマホの地図やカーナビで見ると城の跡がよくわかります。
訪れる際には是非一度城内を車で貫いてみてくださいw
ただ、道幅は狭くカーブが続く見通しの悪い道ですのでスピードの出し過ぎには注意が必要です。
でも見通しが悪いのは城としての仕事をしっかり果たしてる気がしていいなぁと思ってしまいますw
遠見遮断。
これが城下町づくりの鉄則ですからね。
さらにそれが鉤形とかではなくずっとカーブを描いているというのも、何か武田の術中にハマっているような気がして面白いです。(楽しみ方がマニアックすぎるかもしれませんww)
(カーブする街路 三の丸堀部)
とにかく、攻城される際は安全運転でお越しください。
駅からバスも出ていると思いますのでぜひ。
以上で終わりたいと思います。
またよろしくお願いします。
ありがとうございました!