大納言メモ

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県内の城を歩こう!#10花倉城 前編

こんにちは!
今回は花倉城を取り上げたいと思います!

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花倉城は静岡県藤枝市にある城です。
別名「葉梨城」とも呼ばれます。
典型的な中世の山城で、観光客もほとんど来ないようなアクセスしにくい場所にあります。
私も花倉城の存在は知っていましたが、近くを通りかかってもいったいどの山が花倉城なのか全くわかりませんでした。
グーグルマップで経路検索して向かったのですが、3.4回ほど道に迷いました…w
ただ歴史的には非常に有名なお城です。
前回の#9久能山城でも少し触れた、今川家の家督争いである「花倉の乱」の舞台になったお城です。
個人的には最近「花倉の乱」に関して小さな発見があったので、乱自体の話もさせていただきたいと思います。

花倉城は1353年に今川家2代当主の今川範氏によって築城されたと言われています。
花倉の乱」が勃発したのは1536年ですから、それより200年も前に築城されたことになります。
駿河守護として駿府静岡市)を拠点としていたイメージの強い今川氏ですが、京から下向してきた当初は花倉(藤枝市)を拠点にしていたと言われております。
実際に花倉城の周辺には家臣の屋敷跡や今川家ゆかりの寺院が多く、花倉は今川氏が駿河支配の第一歩を踏み出した縁の深い地と言えます。
花倉(藤枝市)の位置する志太平野一帯にも今川家ゆかりの寺院などが点在しており、今川家の最盛期を支えた軍師・太原雪斎の墓や今川義元の母・寿桂尼の位牌が納められている寺もあります。

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以上のように、花倉城は今川氏とのつながりが非常に深い城であったことがわかります。
花倉が今川家を二分する家督争い「花倉の乱」の舞台になったのもうなずけるかと思います。


では「花倉の乱」について少し書きたいと思います。
花倉の乱は1536年に勃発した今川家の家督争いです。
事の発端は今川家当主であった今川氏輝が24歳の若さで急死したことに始まります。そして同日に弟の彦五郎も急死します。
これによって次期当主の座をめぐり、栴岳承芳今川義元)と玄広恵探(今川良真)が争います。

その時に玄広恵探が立て籠もったのが花倉城です。
この戦いに栴岳承芳が勝利し、今川義元として家督を継ぐことになりました。

今川義元の時代に今川家は最盛期を迎えますので、花倉の乱は後の「海道一の弓取り」を生んだ非常に重要な戦いなのですが、非常に謎の多い戦いでもあります。

 


まず状況が複雑です。
今川氏親寿桂尼の間に生まれた長男が氏輝。次男が彦五郎です。
そして乱の当事者である義元が5男。
玄広恵探は4男・・・なのですが、母は寿桂尼ではなく、今川氏親と福島氏という家臣の娘との間に生まれた子になります。
順番的には4男の玄広恵探が継ぐことになりますが、庶子ということで5男の今川義元にやや正当性があるのかなという感じです。
ちなみにこの2人には強力なバックアップがついていました。
娘の嫁ぎ先や師弟関係の人物を当主に押し上げて自分が実権を握ってやろうというのはよくあることですよね。
玄広恵探には福島正成今川義元には太原雪斎がついていました。

 

この乱について私は、駿府にいる今川義元側に対して家督奪取を目論んだ福島正成玄広恵探を担ぎ上げて挑んだ一種の反乱だと理解していました。
しかし先日、花倉城が所在する藤枝市がまとめた「藤枝市史」を拝見したところ、花倉の乱に関してある発見がありました。
それはどの家臣がどちらの陣営に味方していたかという両勢力を表した図にありました。

 

それを見ると、なんと・・・寿桂尼玄広恵探側についていたのです!

 

私はこれを見て衝撃を受けました。
上記した通り、寿桂尼今川義元の母親です。
つまり、実子と庶子の戦いに庶子陣営として参戦していたことになります。

普通ならありえないですよねw
「参戦」という言葉をあえて使ったのは、寿桂尼が女戦国大名と呼ばれるほど今川家の中で絶大な権力を握っていたからです。

おそらく、寿桂尼玄広恵探側についたことによって家臣たちは去就に大いに悩んだことではないかと思います。(重臣・朝比奈氏も玄広恵探側についていました。)
さらにそんな混乱に乗じて隣国からも援軍派遣というかたちで介入がなされました。
北条家は今川義元側、武田家は玄広恵探側につきました。

このように、「花倉の乱」は玄広恵探と福島氏が起こしたただの反乱ではなく、今川家が二分されたお家の一大事だったのです。

 

ではなぜ寿桂尼玄広恵探側についたのでしょうか。

そもそもこの乱の1番の謎は、「氏輝が24歳の若さで急死」したことと「彦五郎が同日に死去」したことにあるでしょう。

かなり事件のにおいがしますねw


それを踏まえて、私は1つ説を考えてみました。

それは・・・「太原雪斎黒幕説」です。(すでに誰かが論じていたらごめんなさい)

太原雪斎が今川家で実験を握るために仕組んだことではなかったか、という説です。
実際、この乱の後雪斎は、僧でありながら軍師という立場で存在感を高めていきます。

 

太原雪斎は京でも修行を積んだ高僧で、出家していた栴岳承芳今川義元)の師でありました。
相当頭がきれる人物であったと思われます。
雪斎は自分が育てた栴岳承芳家督継がせるため、当主氏輝と弟彦五郎を一夜に暗殺する計画を立て、実行したのではないでしょうか。
もちろんその後に起こる家督争いまでも計算し、家臣を味方に引き入れる工作を速やかに行ったことでしょう。
ただ想定外であったのが寿桂尼の動きです。
まさか寿桂尼が敵方(玄広恵探)につくとは思わなかったのではないでしょうか。
これによって今川家が二分してしまうことになります。

 

ではなぜ寿桂尼玄広恵探側についたのでしょう。
2つ目の大きな謎です。
寿桂尼も相当頭がきれる人物であったと思われます。
私は、このとき寿桂尼は雪斎が裏で暗躍していることを知ってしまったのではないかと思います。

雪斎黒幕が本当であれば、寿桂尼は雪斎に相当な恨みがあったと思われます。
なんせ長男と次男を同時に殺されたのです。
「雪斎に今川家を渡すわけにはいかない」「雪斎の好きにはさせない」という思いがあったかもしれません。
そうすれば実子に敵対することの説明がつきます。
つまり、栴岳承芳に敵対というより、雪斎に敵対するために玄広恵探側についたということです。

しかし、もしこの説が真実であれば、乱の後も寿桂尼が権力を握り続けられるのはなぜかという疑問が生じます。
普通敵対したら処罰されますよね。
戦国時代の武将にとってどちらに味方するかは生きるか死ぬかの選択でもあります。
もちろん、寿桂尼は義元の母ですから処刑されることはないでしょうが、敵方についた重臣のなかにも、朝比奈氏をはじめ義元時代に重用された人物はいます。
首謀者である玄広恵探は自害、福島正成は討ち死または逃亡したと言われておりますが、それ以外の大規模な粛清が行われなかったのは、やはり寿桂尼の存在が大きいのではないかと思います。
寿桂尼の参戦によって今川家が二分してしまい、予想以上の大乱になってしまいました。
よって敵方とはいえど、その後の今川家の勢力を保つためには多くの家臣を許すしかなかったのではないでしょうか。

 

整理すると、

①氏輝と彦五郎の急死は雪斎が仕組んだ

②それを知り寿桂尼は反雪斎の立場をとり庶子の恵探側に味方した

寿桂尼の動きによって庶子の恵探側につく家臣も多くなり今川家が二分した

④乱終息後は首謀者を排除できたため、残りの家臣は勢力維持を理由に赦免

 


いかがでしょうか。

以上が私の思う花倉の乱です。
いくつかの不可解な謎がありますが、これであれば一応のつじつまが合うかなと思っています。


ただいろんな説があると思いますし、まだまだ研究されつくしていない有力な資料もあると思います。
素人の趣味の領域ですから、「こういう考え方もあるのかぁ」くらいで捉えてくださいw
#9久能山の時と同様、都市伝説みたいなものですねw

何度も言いますが一個人・一素人の考えですからねw

 

ちなみに、その後少し調べてみてわかったのですが、「氏輝と彦五郎は流行病で亡くなった」とか「そもそも義元は寿桂尼の実子ではない」という可能性もあるそうです。
ですから今の段階では何とも言えないですねw

でもまあ自分ではうまく説を作り上げられたかなと思ったので紹介してみましたw
これから今川家に関してはもっと詳しく調べてみたいと思っています。
また新たな歴史的発見があって、いい説が浮かんだら書いてみようと思いますw

 

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今回は花倉の乱の話ばかりになってしまいましたw
まだ書きたいことがあるので、続きは次回書きたいと思います。
では今回はこれで。
ありがとうございました!