大納言メモ

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県内の城を歩こう!#9久能山城

こんにちは!

今回は久能山城を取り上げたいと思います!

 

久能山城は静岡県静岡市久能山に築かれたお城です。

久能城とか久能寺城とも呼ばれます。

現在は跡地に久能山東照宮が建ち、ロープウェイが整備されてアクセスもしやすく、観光客も多いです。

ただそこが城であったと知って見学している人は何人いるでしょうか…

 

今回は久能山城と久能山東照宮の両方をご紹介できたらなと思います。

 

 

久能山城は武田三大山城(武田三大名城)の1つに数えられます。

その名の通り武田の築いたお城として知られているのですが、今川家の家督争いである「花倉の乱」で玄広恵探派が拠点としたという記述があるようです。

別名に久能寺城とあるように、もともとこの地は山岳寺院がありました。

おそらく花倉の乱ではその寺院を拠点としたのだと思われます。

今川が滅亡して武田が駿河を治めることになった折に寺院は移転させられ、山城として整備されました。

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上からは駿河湾がよく見渡せます。

写真奥に見える山のふもとには持舟城という水軍の拠点があり、反対に久能山城の裏手の清水湊には駿河支配の拠点である江尻城がありました。

久能山城はこの2拠点を中継する海上交通監視のために整備された城と思われます。

さらに天気が良ければ伊豆半島までよく見渡すことができ、北条水軍の動きも手にとるようにわかったことでしょう。

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こちらはロープウェイの乗り口から城の方を撮った写真ですが、いかに急峻な城であるかがおわかりかと思います。(左奥の峰に東照宮があります)

周囲は断崖絶壁で、よくこんなところに城を築いたものだと感嘆させられます。

ちなみにロープウェイを使わずに登ることもできます。

でもその代わりすごい数の石段を登らなければなりません。

昔は地元のプロサッカーチーム・清水エスパルスが階段ダッシュをしていました。(今もやってるのかな…?)

私も1度やってみたことがありますが、走り切るどころか歩くのも苦しくて最終的には這って登ってきたのを覚えていますw

東照宮でお勤めされている神職の方々は毎日歩いて登っているそうです・・・

ありがとうございます😿

 

城の遺構ですが、東照宮が造営されたことやロープウェイが整備されたことでほとんど残っていません。

ただ、ロープウェイを降りる直前に左手に現れる石垣は当時のものと聞きましたので、気になる方はチェックしてみてください。

 

 

武田が滅亡すると次に駿河を治めることになったのは徳川です。

久能山城は徳川の管理する城となりました。

そして元和2年(1616年)に徳川家康が亡くなると城は廃城となり、その地に東照宮が造営され家康が埋葬されます。

東照宮とは神格化された家康を祀る社のことです。

最も馴染みのある東照宮日光東照宮でしょう。

世界遺産にも認定されています。

それに比べて久能山東照宮はやや知名度が低い印象です。

歴史にそれほど詳しくない人に久能山東照宮の話をすると、「久能山?知らなーい」「なにそれ?日光東照宮のマネ?」などと言われ悲しい思いをしたことがあります…w

日光だけではなく久能山も知ってほしい!

そういう強い思いで今日は書いていきますw

 

久能山東照宮が建てられた経緯は、家康の遺言にあります。

家康は駿府城で息を引き取る前、家臣にこう伝えました。

「遺体は駿河国久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」

この遺言通りに2代将軍徳川秀忠久能山に家康を葬り、その1年後に日光に移します。

このことから久能山と日光に東照宮があるわけです。

ちなみに東照宮は東京の上野・芝、和歌山、広島など全国各地にあります。

その中でも久能山と日光は遺言にも登場している特別な存在と言えるでしょう。

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ここで久能山東照宮に関する都市伝説を少し紹介したいと思います。

まず1つ目は「神廟が西を向いている」です。

これは有名ですね。都市伝説というより実際に意図があってそうされたのだと思います。

家康は幕府を開いて天下人になった後も西国の大名を非常に警戒していました。

ですから西国の大名が反徳川に動くことのないよう、死してなお西をにらむように埋葬させたということです。(でも結局最後は薩長という西国に倒されちゃいますが…)

ちなみに方角でいうと、日光東照宮は江戸の真北にあたり、家康が天帝(北極星)となって関東を見守るという意図があると言われております。

 

2つ目は「家康の遺体は久能山にある」というものです。

こちらも近年話題の都市伝説です。

一般的には家康の墓は久能山から日光に移されて遺体も日光にあると思われています。

しかし遺体は久能山に残されたままなのではないかという説があります。

たしかに遺言では「遺体は駿河国久能山に葬り…」「…下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ…」とあり、遺体を日光へ移せとは述べられていません。

勧請とは「神仏の分霊を他の場所に移しまつること」であり、つまり日光に移したのは魂だけではなかったのかということです。

そうなると遺体はまだ久能山にあることになります。

この他にも、当時日光への勧請を指揮した者たちが詠んだ歌から御霊だけを移したことが伺える文言があるといいますし、家臣の墓の位置でもそれが裏付けられるといいます。

 

久能山に家康が眠っているとなれば全国的な知名度もあがるのかなと期待してしまうのですが、掘り起こすわけにもいかないので真実はわかりません…

今後の研究にも期待したいところです!

 

3つ目は「久能山と日光を結んだ線上に富士山がある」というものです。

こちらはいかにも都市伝説っぽいですよねw

確認してみると確かに間に富士山があります。

家康は富士山を非常に愛していたと言われています。

日本のシンボルでもある富士山と自らを祀る社を結ぶことで何か特別な力を持とうとしたのではないかと言われています。

ただその前に、はたして江戸時代にそんなことができたのでしょうか…

正直なところ私は可能性はあると考えています。できないこともないんじゃないかと。

なんせ家康は利根川をねじ曲げ、神田の山を削り、遠く離れた多摩川から何百分の1の勾配で水を引いてきて、世界一の都市をつくった男です。

今でいう大ディベロッパーですし測量の技術も高かったと思われます。

それに家康のもとへは舶来品として時計や天球儀が贈られています。

まだ江戸初期には国交のあったスペインやイギリスなどの海洋国家から、より高度な測量技術を学んでいたとしてもおかしくはないのです。

よって私は可能性はあるかなと思います。(絶対そうだとは言いませんw)

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そんな都市伝説の真相を確認しにぜひ久能山へ足を運んでみてくださいw

東照宮に隣接する施設の中には徳川ゆかりの貴重な品々もみることができます。

もちろん山城ファンの方も訪れてみてください。

 

さて、今回はやや城から離れた話が多くなりましたがいかがでしたでしょうか。

城以外の話もたまにはしていこうと思いますw

次回は記念すべき#10です。

今からどこの城にしようかじっくり考えますw

では、またよろしくお願いします。ありがとうございました。