大納言メモ

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県内の城を歩こう!#16江尻城

こんにちは!

今回は江尻城を取り上げたいと思います。

 

 

江尻城は静岡県静岡市清水区にあった城です。

地域支配の重要拠点であった城でしたが、今その遺構はほとんど残っていません😢

清水の町なかを流れる巴川を背に、扇状に城が展開されていました。

現在、本丸跡は清水江尻小学校が建てられており、その他の遺構も住宅地となっていて当時の縄張りを確認するのは難しい状態です。

城の解説版は小学校を始め数カ所に設置されているようですが、住宅地や小学校の周りをうろつくと怪しまれてしまうのでお気をつけ下さいw

 

江尻城は武田氏によって築かれた城です。

駿河に進出して念願の海を手に入れた武田氏が、その支配を盤石にするため築いた城です。また、遠江三河方面の軍事を統轄する役割もありました。

縄張り(城の設計)をしたのは今やお馴染みの馬場信春で、丸馬出しが3カ所設けられた東西400m、南北260m規模の城だったようです。

当時としては珍しい平城ですが、城の背後を流れる巴川から清水湊へ繋がることで、湊の水運と水軍が利用することを意識したものと思われます。

城には武田四名臣・山県昌景が入城。長篠の合戦で昌景が戦死すると、武田家御一門衆の穴山信君(梅雪)が入城しました。

武田家のなかでもかなりの大物が城を任されていることから、武田はこの城を大変重視していたことが窺えます。



では、江尻城代になった2人についても少し触れたいと思います。

まず山県昌景です。

彼は武田二十四将の1人で、馬場信春高坂昌信内藤昌豊と並んで武田四名臣(四天王)にも数えられる名将です。

また、赤備え軍団を率いていたことでも知られています。

赤備えといえば、少し前に大河ドラマ『おんな城主直虎』が放送された際、様々な特番で井伊直政井伊の赤備えが取り上げられました。

鎧を朱色で統一して敵に突撃し、井伊の赤備えと聞くだけで敵が震え上がったという話です。


ただその軍団、元はと言えば昌景の軍団なんですよね。

そこまで解説してくれている番組ってあまりなかったので少し残念でした…

元々の赤備え軍団は昌景の兄の飯富虎昌という人物が率いていましたが、ある事件に連座して自害することになり、弟の昌景が軍団を譲り受けて率いることになりました。

そこから昌景の赤備えは名を挙げていきます。

中興の祖というか…武勇と知名度を兼ね備えた真の赤備えを完成させたのは山県昌景だと私は思っていますw

そして昌景が死に、武田が滅んだ後に徳川配下になった赤備え軍団は井伊直政のもとに預けられ、そこで初めて井伊の赤備えが誕生するわけですね。

だからもうほぼ完成してたんですね。

そりゃ強いですって話ですw


筆者は好きな武将が山県昌景なので井伊の赤備えだけがチヤホヤされるのが嫌なのですが、井伊直政も静岡にゆかりのある人なので

批判はやめますww

直政のことも好きになってくださいw


次は穴山信君(梅雪)です。

率直にいってこの方は好きになれませんw

(穴山ファンの方すみません)

御一門衆筆頭でありながら織田徳川軍に内通し武田家瓦解を決定的なものにした、というイメージが強すぎるからです。

一説には、もう武田が滅びることは止められないので、武田一門の自分が内通して生き残ることで武田家再興の道を残そうとしたと言われておりますが内心はどうだったでしょうか。

穴山信君の最期は、本能寺の変の際、徳川家康とともに伊賀越えを行い、途中で家康を不審に思った信君が別行動をとり、そこで一揆勢に討たれたとか落ち武者狩りにあったとか言われています。

信君だけ急に別行動をし始めて、信君は襲われたのに家康は無事帰ってきたというのは何やら怪しい話ですが、いずれにせよ裏切りの因果なのか良い最期だったとは言えませんね…

信君の死後は息子の勝千代が家督を相続し、武田姓を復活させて武田信治と名乗りますが疱瘡により16歳で死去し穴山家は断絶します。

武田家再興も長くは続きませんでした…


この本能寺の変に関する穴山信君徳川家康の動きは謎が多くて面白いので、いつか別の回で取り上げたいと思います。




今回はそろそろ終わります。

遺構がないので初心者向きではありませんが興味のある方は是非行ってみてください。

大手とか二の丸町とか地名は残ってるみたいですよ!


それではまたよろしくお願いします。

ありがとうございました。