大納言メモ

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県内の城を歩こう!#17持舟城

こんにちは!

今回は持船城を取り上げたいと思います。

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持舟城は静岡県静岡市駿河区用宗にあります。

JR東海道本線用宗駅のすぐ裏手の山が城跡になります。

用宗(もちむね)という地名は、持舟(もちふね・もちぶね)から変化したものです。

城の名前になった持舟は字の通り舟があったことに由来しており、この城は水軍の拠点として利用されていました。

信長公記』では、信長一行が駿府の町を見て安倍川を越えたのちに、「この川下の左の山の手に、武田勝頼が最近築いた持舟という城がある」というふうに登場します。

勝頼の築いた最近の城とありますが、実際には今川氏の時代からある城で、城主は重臣の関口氏であったと言われています。

日本坂峠を越えてくる西からの軍勢に対する駿府防衛の砦として重要視されたものと思われます。


今川氏真が武田氏によって駿河を追われたあと、持舟には向井氏が入り向井水軍の拠点となります。

長篠の合戦後、一時徳川勢に攻め落とされますが、武田勝頼は再び取り返し、今度は配下の朝比奈氏が入ります。

1582年に武田征伐が始まると再び徳川によって包囲され、朝比奈氏は久能山城に退去し城は開城。その後廃城となりました。


今川vs.武田、武田vs.徳川の攻防では多数の戦死者が出ており、持舟城は犠牲を払ってでも確保したい重要拠点であったことがわかります。

犠牲者の数は他の駿河国内の中世山城と比べても多いそうです。



ではそこまでして持舟城を確保したい理由は何でしょうか。

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(用宗の海岸から西を眺める)

持舟城の西側は写真のように海にまで山が張り出しています。(大崩海岸)

この山の向こう側は焼津という港町があり、大井川の沖積平野である志太平野が広がります。

志太平野遠江方面から駿府に入るには、大きく分けて2つのルートがありました。

1つは東海道(現国道1号線)の通る宇津ノ谷峠。

2つ目がそれより海側を走り日本坂峠を越えるルート(現東海道本線・新幹線・東名高速道路国道150号線)です。

持舟城はこの2つ目のルートを抑える目的がありました。

また、海に近い(当時は深い入江があって天然の良港であった)ため、海上の監視と水軍の拠点となりました。

特に武田氏は駿河国支配に関して水軍を重要視していた節があるので、そのネットワークの1つとして、つまり駿河(駿府)支配の最重要拠点の1つとして持舟城を位置付けていた可能性があると思います。

上記もしたように、長篠の合戦後の1579年に徳川勢に奪われた持舟城を、武田勝頼は1580年にはすぐさま取り返しています。

駿遠国境にある「#6小山城」や「#7諏訪原城」も大井川を活用したネットワークで繋がっていますし、「#9久能山城」「#16江尻城」「#13蒲原城」「#12興国寺城」は湊や入江を有していたり海岸線を監視できる位置にあり、対北条の最前線である三枚橋城まで水軍ネットワークで繋がります。

このように武田家、とりわけ武田勝頼は水軍を大いに活用し、それを基にした城造りや配置をしていたのではないかと思います。

ですからその中間地点にあたる持舟は特に重要だったのかもしれません…



ちなみに余談ですが、持舟城代でもあり武田水軍の重要人物向井氏のお墓(供養塔?)は「#15清見寺」にあるそうです。

先日清見寺を訪れた際に、たしかに向井氏の墓を確認したのですが、近くにガイドさんがいなくて聞けませんでした😅(やっぱりあの向井さんだったのか…w)

向井水軍ファンの方がもしいれば、セットで訪れてみてはいかがでしょうか。



今となっては小さな山ですが、そのような背景を知るとただの山登りではなくなるかもしれません。

景色もとても綺麗でしたが動画で撮ってしまっていたので紹介できません😢

ご自身の目で見て確認してくださいw

用宗の港町から駿河湾伊豆半島久能山駿府の町・富士山までを全て見渡せます。

絶景ですから是非見ていただきたい!

あと城山の真下を新幹線が通ってますから鉄道ファンのフォトスポットとしても最高です。

駅からも近くて駐車場も(数台ですが)ありますのでアクセスもしやすく、山も高くないのでお手軽な山城です!

用宗港では駿河湾名物しらすが食べれますから観光がてら是非訪れてみてください!


今回は以上です。

次もよろしくお願いします。

ありがとうございました。