県内の城を歩こう!#18丸子城
こんにちは!
今回は丸子城を取り上げたいと思います。
別名鞠子城、宇津谷城、三角山城などとも呼ばれます。
元はこの付近一帯を治めていた今川家臣の斉藤氏が城主として守っていましたが、武田家が駿河に侵攻すると武田の城として大改修が行われ、一時山県昌景が在城して備えていました。
『信長公記』には「山中の街道沿い丸子の川端に、出城の山城がある」と紹介されています。
この街道とは東海道のことです。
富士山見物をした後、江尻城(清水)を出立した信長一行は丸子の先にある宇津ノ谷峠の登り口で休憩をとります。
丸子城に立ち寄った記録はありませんが、おそらくその足元を、城の説明などを受けながら通ったのではないかと思います。
丸子城が築城されたのは南北町時代だと言われています。
その頃から、主要街道であった東海道の監視と駿府を守る西の関門として重要視された城でした。
「#17持舟城」でも述べたように、駿府に西から侵入するには2つのルートがあります。海沿いを抜ける日本坂峠ルートと東海道を通る宇津ノ谷峠ルートです。
日本坂峠ルートを抑えていたのが持舟城であったのに対して、宇津ノ谷峠ルートを抑えていたのが丸子城でした。
駿府を防衛する上で非常に重要な城で、武田が大改修を行なって守りを強化したのもうなずけます。
今川時代の丸子城は北の曲輪の部分を本丸として利用していたそうですが、武田氏によって現本丸が造られると、両本丸を繋ぐようにして二の丸・三の丸が整備されました。
本丸から北の曲輪まで続く大規模な横堀は見応えがあります。(写真では伝わりづらい…)
この鳥瞰図によれば丸馬出状の堡塁があるようです。
横堀のところにも丸馬出のような形状は見られます。
武田は南側に向かって城を拡張し、馬出などの改修を加えたことがわかります。
城域は南北500メートルにもわたり、堅牢さが窺える城ですが、武田が城を守る戦いをした記録はなく、1582年に徳川家康の侵攻によって南の持舟城が落城すると、丸子城にいた武田勢は退いたとみられています。
武田滅亡後も徳川家によって丸子城は管理されていましたが、1590年に家康が関東へ移封されると廃城となりました。
解説版によれば、遺構の保存度が非常に良いそうです。
武田氏の城が好きな方は是非訪れてみてはいかがでしょうか。
城を訪れる際には駿府匠宿の駐車場(有料)に車を停めて歩いていくのが便利です。
駿府匠宿は工芸や歴史の体験型施設ですのでついでに寄ってみてはいかがでしょうか。
駿府匠宿の横を抜けて大手の方から登っていくとこのような道になります。
葉っぱがやや多いですが木々は手入れがしてあって比較的明るいです。(写真は3年前ですが…w)
三角点がありました。
三角点マニアの方は併せてどうぞ。(いないかな…w)
こんな看板もありました。
山城にはこういう手書きの看板多いですよね。
ありがたいですけど信じて行ってたまに騙されることもありますw
低い山ですけど山は山なので遭難にはお気をつけください。
そして最後は自分を信じてください。たぶんなのでw
では今回はこの辺にしたいと思います。
次もよろしくお願いします。
ありがとうございました!