県内の城を歩こう!#19花沢城
こんにちは!
今回は花沢城を取り上げたいと思います。
最近取り上げてきた城の中ではダントツでマイナーだと思いますw
ですが、『信長公記』には記述のあるお城です。
信長一行が立ち寄ったことは書かれていませんが、「…街道の左手、田中の城から山の尾が海岸へ延びたところに、花沢の古城がある。これは昔、小原鎮実が立て籠もっていた時、武田信玄がこの城を攻め損じ、将兵を多数討ち死にさせて敗退した城である」というような記述があります。
これは武田信玄の駿河侵攻に伴う今川方との攻防戦に関するエピソードです。
実際は、今川方の花沢城には大原資良が籠もっていたとも言われていますし、武田軍は城を落としています。
若干食い違うところもありますが、位置的に花沢城とみて良いと思います。
それに、武田軍は敗退こそしなかったものの今川方の城兵と激戦を繰り広げ、落城までに約1ヶ月ほど時を要し将兵を多く討ち死にさせたのは事実であると思われます。
(小原鎮実と大原資良はおそらく同一人物です)
そんな堅城(?)の花沢城をご紹介したいと思います。
花沢城が築かれたのは花倉の乱(#10花倉城)直後の1537年頃と考えられています。
場所は静岡県焼津市。高草山から派生した山地に築かれている山城です。
花沢城は#17持船城・#18丸子城でも触れた志太平野から駿府へ繋がる2つのルートのうち、海側の日本坂峠ルートの西側の峠の入り口に位置しています。
今川家は駿府への侵入を防ぐため、日本坂峠を挟んで東を持船城、西を花沢城で守るという態勢を取っていました。
今川の支城のなかでも重要な役割が課されていた城と思われます。
ちなみに花沢城から数百メートルのところに石脇城という城跡があります。
(石脇城は以前に少し紹介しました。よかったら読んでください🙇♂️)
こちらは花沢城よりも昔、今川氏親の時代に伊勢新九郎盛時(北条早雲)が守備していた城になります。
花沢城は石脇城よりも標高が高く、より強固になっていますが、今川が一貫してこの地を駿府防衛の要衝と位置づけていたことがわかります。
花沢城が語られるのは、やはり武田信玄の駿河侵攻の際の攻防戦です。
永禄11年(1568年)に駿河侵攻を開始した信玄は瞬く間に駿府を掌握し、今川氏真を遠州掛川に追いやります。
一旦は帰国した信玄ですが再度駿河へ侵攻。今度は駿府(静岡平野)から志太平野へ侵攻し駿河国全域の掌握を目論みます。
永禄13年(1570年)、今川家臣の岡部氏が武田の傘下に入ると、峠を越えて山西地域(志太平野)に侵入。
高草山の中腹に陣を構えて花沢城を包囲しました。
正月4日に始まった城攻めですが、城が開城したのは27日。
今川家臣が次々に武田に離反するなか、花沢城は約1ヶ月に渡って戦い続けました。
写真がなくて残念ですが、花沢城から高草山を眺めると非常に近く圧迫感を感じます。
そこに信玄本体がいる状況でよくぞ1ヶ月戦い続けたものだと感心しました。
おそらく花沢城内の動きはほとんど見えていたのではないかと思われます。
もし訪れる機会があれば本丸から高草山を眺めてみてください。
そこに武田軍数千が陣取ってこちらを睨んでいると想像してください。本当に怖いですw
このお城、遺構はそれほどしっかり残っているわけではありません。
城跡というより農道を登って行った先にある手入れの行き届いていない山といった印象です。
ただ、私が登城したその日に本丸部に解説板らしきものを新たに設置していました。
(ビニールが被されていたので私は見られませんでした😭)
先程述べた石脇城も最近になって調査がなされたり、解説版が設置されたりしましたので、史跡の保存に市が力を入れ始めているのかも知れません。
もしかすると皆さんが行かれる時にはすごく綺麗に整備されているかもしれませんw
お楽しみにw
何か新しい情報が入ったらこちらでも公開できたらなと思います。私ももう一度行ってみます!
では今回は以上になります。
次回もよろしくお願いします。
ありがとうございました!