大納言メモ

好きな事について気楽に書いていきます。

コロナが収まったら行きたい城

こんにちは。

前回の投稿からかなり日が開いてしまいました…

 

今日は、コロナが収束したらぜひ訪れてほしい城をご紹介します!

それは・・・私のアイコンにもなっている「山中城」です!

歴史的にも重要な戦いのあったお城で、かつ非常によく整備されており、日本百名城にも選出されているというすばらしいお城です。

f:id:KJDSF:20200601171846j:plain

場所は静岡県三島市国道1号線東海道)を箱根峠に向かって登ったところにあります。近くには旧東海道の石畳があるのですが、とても風情があって一瞬時が止まったような感覚になります。

石畳の真ん中に立って「豊臣の大軍もここを通ったのかな…」なんて想像するとまた面白いかもしれません。

f:id:KJDSF:20200602124842j:plain

旧東海道の石畳

なぜ急に「豊臣の大軍」が出てきたのかと申しますと、この山中城は豊臣の大軍を打ち負かすために整備・増築され、実際に激戦が繰り広げられたからなんです。

 

山中城は小田原の北条氏が築いたお城で、天守などはない山城です。冒頭に少し触れたように、東海道の箱根峠の西側という交通の要衝にあり、北条氏にとっては、西から進軍する敵に対し小田原城を守るための重要な拠点でありました。

 

この山中城が歴史の表舞台に登場するのは、天正18年(1590)の小田原征伐と呼ばれる戦です。北条征伐などとも言われます。

九州を平定し、天下統一まで残すは関東と東北のみとなった豊臣秀吉が、関東の覇者北条氏を成敗するための戦いです。

なぜ「成敗」かというと、秀吉の発令した「惣無事令」という決まりを北条氏が破ってしまったからなんです。

「惣無事令」とは、「秀吉の許可なしに勝手に戦するの禁止ね!」という令なのですが、北条はそれを無視して城を取っちゃった訳ですね…

秀吉は「天下人である自分の言うことを聞かないなんて許せん!」と激怒したとも言われますが、私は、「あっ、ラッキー!北条を潰す口実ができたぜぃ!」くらいのものであったかなと思っています。(想像ですwいろんな説があると思います)

 

というわけで、豊臣(というかほぼ全国の武将)vs.北条となった訳ですね。

豊臣軍はいくつかの軍に分かれて関東に侵攻したのですが、この山中城には東海道を東進してくる主力約7万が押し寄せました(多すぎw)。対する北条は約4千。

→結果、半日で落城

「あれ?百名城のわりに意外とあっさり負けてるな」と思うかもしれませんが、半日で落城はしたものの、豊臣方の損失は膨大でした。

ただ北条氏からしても、まさか半日で落ちるとは思ってなかったかもしれませんね。

この時の豊臣の戦い方は味方の屍を乗り越えて突撃するという苛烈なものだったようで、とにかく早く攻略しろってことだったらしいです。(天下人がこんな小さな城を落とせないようでは面目がたたないですからね)

その後の展開は皆さんもご存じの通り、北条氏は小田原城を包囲され、籠城の末に滅亡することになります。(個人的には北条が滅ぶのはショック😿)

 

さあ、話が少しそれましたw

城のこともお伝えしないとですよね。

山中城といえば、北条の築城技術が詰まった中世山城の最高傑作とも言われるお城です。その特徴はずばり「障子堀」です!

f:id:KJDSF:20200602124857j:plain

障子堀

「障子堀」とは、↑このように堀のなかに格子状の畝をつけた堀です。このようにすることで、堀中にいる敵の移動や連絡を絶ち、その格子ごとに敵をせん滅するという仕掛けなんです!

一見すぐに脱出できそうな感じがしますが、当時は今よりも堀は深く傾斜も急であったと考えるのが正しいかもしれません。(あと甲冑着て槍を持ってると想定して…)そう考えるとなかなか恐ろしい仕掛けです。

ちなみに余談ですが、北条氏の手がけた関東の城にはほとんど石垣がありません。土堀に土塁というのが北条スタイルの1つなのですが、それは石を加工したり積む技術が無かったから…というわけではなく、地質が関係しているそうです。関東には関東ロームという火山灰の層があるため、それを活用して非常に滑りやすく登りにくい土塁が築かれていたそうなんです。(すごい!)

だから無理に石垣を作らなくてもよかったんですね!

ただ欠点としては、崩れやすいのでメンテナンスが大変でした。そこで北条氏は領民に区画を分担させて土塁のメンテナンスをさせていたそうです。

領民思いの北条氏。年貢を少し下げる。有事があったら守る。その代わりに堀のメンテナンスをしてくれよ。そうやって武士と領民との良好な関係を築いていました。

北条氏の領国経営は高く評価されています。(私も!)

だからこそ豊臣に降ることはできなかったんでしょうねぇ…

 

最後に、歴史の「if」です。もし半日以上山中城が持ちこたえていたらどうなっていたでしょう。

当時北条家当主で小田原城にいた北条氏直は、出陣の準備をしていたという説があります。行先は箱根の仙石原です。そこで豊臣軍を待ち構え、箱根峠を越えてきた敵と一戦交えようとしていたそうなのです。

ただ山中城への豊臣軍の猛攻が予想以上だったこともあり、その猶予は与えられず、小田原城で籠城策をとることになりました。

山中城があと数日持ちこたえることができていたら…北条と関東、そして日本の歴史が変わっていたかもしれません…

 

 

長くなってしまいました。今日はここまでにしたいと思います。

また随時投稿していきたいと思いますのでよろしくお願いします!

それでは!