県内の城を歩こう!番外編 #14由比宿
こんにちは!
今回は「県内の城を歩こう!番外編」として由比(ゆい)という宿場町を取り上げてみたいと思います。
先日から『信長公記』の信長富士山見物コースをたどりながら名所を紹介していますが、この由比も「神原(蒲原)の浜辺を通って由比へ行った…」という書かれ方で登場します。
江戸時代に東海道の宿場町として栄えた町ですから、信長一行が通った当時にどれほど栄えていたかは不明ですが、交通の要衝であったことは間違いありません。
今日はそんな由比の宿場を、徳川幕府を揺るがす大事件とともにご紹介できたらなと思います。
由比宿は東海道53次16番目の宿場で、現在の静岡県静岡市清水区由比に位置します。
東に蒲原宿、西に興津宿があり、特に西の興津宿との間には、東海道最大の難所の1つである薩埵峠があるため、峠越えの宿場として栄えました。
宿場には旅人が泊まる旅籠(旅館)のほかに、参勤交代で大名が宿泊・滞在するための「本陣」が備えられており、この本陣を中心に宿場町が形成されています。
由比の場合も、町のほぼ中央に本陣があり、現在は由比本陣公園として整備されています。
由比宿は本陣1件、脇本陣(本陣の予備的役割)1件、旅籠32件で人口が約700人と、規模でいうとやや小さい宿場であったようですが、先述したように峠越えの宿場であることから重宝されたものと思われます。
また、宿場の入り口を流れる由比川には、かつて仮の板橋が架けられていたそうですが、増水すると板を取り外してしまうため、通行できず足止めをくらうことがあったそうです。
よって規模が小さいながらも、待機所として重要な役割を果たしていた宿場だったのではないかと思います。
本陣の周囲には水堀があって、当時は馬の水飲み場や洗い場になっていたそうです。
(今はかめがたくさんw)
由比宿には本陣以外にも宿場町の名残があります。
道の幅、街並み、一定の間口、路地を進んだ先にある神社や寺…など一般的な宿場町に見られる特徴がところどころに感じられます。
また、宿場町にある欠かせない特徴として町の両端にあるクランク(枡形)が挙げられます。
これは敵の侵入を防いだり遠見遮断を目的に作られたもので、由比宿にももちろん存在していました。
中山道の観光地、妻籠宿や馬籠宿に見られるようなはっきりとした枡形が残っているわけではありませんが、「これ桝形っぽいなぁ…」と思うような痕跡は見ることができましたw
クランクは現代の車社会にはただの障害でしかないので、取り壊されてしまう場合が多いですが、その名残が見られるところはあるので、そういう観点から宿場町や城下町を走ってみるのも面白いです。
そもそも桝形は障害物として作られた訳ですから、現代でも邪魔だと思われているなら本来の役目を全うしていて素晴らしいなと思ってしまいますw
だから取り壊されて欲しくはないのですけど…地元の人からしてみたら心の底から邪魔だと思いますし、見通しが悪いことは事故の危険もありますからね。しょうがないことです。
さあ、冒頭に徳川幕府を揺るがす大事件について取り上げると書きました。
最後に由比宿にも少し関連する大事件についてお話ししたいと思います。
歴史マニアの方はもうお気づきかもしれません。
ヒントはこちらです。
のれんには「正雪紺屋」とあります。
そうです。
こちらは幕府転覆を企てたとされる由井正雪が過ごした家とされています。
世に言う「慶安の変」の首謀者とされる人物です。
江戸時代初期、3代将軍徳川家光の頃は、天下泰平とはいうもののまだまだ戦国の臭いが濃く残っており、徳川幕府も諸大名に必要以上に睨みをきかせていました。
力のある藩は転封(領地替え)を行なって力を削ぎ、少しでも幕府に歯向かったり謀反の噂が聞こえてこようものなら即座に改易(取り潰し)の憂き目にあうという殺伐とした世の中でした。
また、当時は後継ぎがいないまま死んでしまう大名も少なくなかったのですが、幕府は末期養子(お家断絶を避けるために迎える養子)を禁止していたため、当主不在で無くなる藩もありました。
藩が無くなると仕えていた家臣たちは多くが浪人となります。
江戸初期には取り潰されたりお家断絶となった大名家の元家臣(浪人)が急増し、江戸の治安は悪化。幕府に不満を持つ者も多かったそうです。
そこで由井正雪が登場します。
17歳で江戸に出た正雪は、そこで兵法を学びのちに自らの軍学塾を開くまでになりました。
軍学塾には大名家の家臣や旗本、浪人たちも多く含まれ、門下生は膨大な数になっていました。
そして慶安4年(1651年)に3代将軍徳川家光が死去すると、まだ4代将軍徳川家綱が幼かったこともあり、幕府政策への批判と浪人救済を求めて挙兵を企てます。
しかし、各地で浪人を集めながら決起しようとした矢先、計画を密告する者が現れ、正雪は駿府にいるところを町奉行に囲まれ自刃したといいます。
享年は47歳でした。
この密告者が誰なのかは気になるところですが、実は幕府側が忍び込ませていたスパイだったそうです。
門下生に浪人が多くいたため目をつけられていたのかもしれません。
事件が発覚した後、大名家の家臣が多く通っていたこともあり、正雪との繋がりを疑われた大名家もありました。
これらのことから、事件は未遂に終わったものの、幕府だけでなく各大名家や旗本までもが震撼した大事件になった訳です。
増加し続ける浪人の不満がもたらしたこの事件を機に、幕府はこれまでの武断政治を改め文治政治に切り替えることになりました。
末期養子の禁止も緩和し、浪人の増加を防ぐために藩の取り潰しなども少なくなっていきました。
幕府転覆はありませんでしたが、結果的には浪人たちの不満が幕府を動かすことにつながりました。
戦術的には負けたが戦略的には勝ったとかなんとかのやつでしょうかw
大悪人のように言われがちな正雪ですが、後の世の浪人を救ったとも言えるかもしれません。
いずれにせよ、そのような有名人が静岡出身ということは1つの観光資源であると思うので紹介させていただきました。
(本陣の手前が正雪紺屋になります)
いかがでしたでしょうか。
今回は以上になります。
最近城の話が少ないですが、もう少ししたらまた書きますので…w
そろそろネタ集めに城巡らないとなぁ…w
では、次回もよろしくお願いします。
ありがとうございました。