大納言メモ

好きな事について気楽に書いていきます。

県内の城を歩こう!#19花沢城

こんにちは!

今回は花沢城を取り上げたいと思います。

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最近取り上げてきた城の中ではダントツでマイナーだと思いますw

ですが、『信長公記』には記述のあるお城です。

信長一行が立ち寄ったことは書かれていませんが、「…街道の左手、田中の城から山の尾が海岸へ延びたところに、花沢の古城がある。これは昔、小原鎮実が立て籠もっていた時、武田信玄がこの城を攻め損じ、将兵を多数討ち死にさせて敗退した城である」というような記述があります。

これは武田信玄駿河侵攻に伴う今川方との攻防戦に関するエピソードです。

実際は、今川方の花沢城には大原資良が籠もっていたとも言われていますし、武田軍は城を落としています。

若干食い違うところもありますが、位置的に花沢城とみて良いと思います。

それに、武田軍は敗退こそしなかったものの今川方の城兵と激戦を繰り広げ、落城までに約1ヶ月ほど時を要し将兵を多く討ち死にさせたのは事実であると思われます。

(小原鎮実と大原資良はおそらく同一人物です)



そんな堅城(?)の花沢城をご紹介したいと思います。

花沢城が築かれたのは花倉の乱(#10花倉城)直後の1537年頃と考えられています。

場所は静岡県焼津市。高草山から派生した山地に築かれている山城です。

花沢城は#17持船城・#18丸子城でも触れた志太平野から駿府へ繋がる2つのルートのうち、海側の日本坂峠ルートの西側の峠の入り口に位置しています。

今川家は駿府への侵入を防ぐため、日本坂峠を挟んで東を持船城、西を花沢城で守るという態勢を取っていました。

今川の支城のなかでも重要な役割が課されていた城と思われます。

ちなみに花沢城から数百メートルのところに石脇城という城跡があります。

(石脇城は以前に少し紹介しました。よかったら読んでください🙇‍♂️)

こちらは花沢城よりも昔、今川氏親の時代に伊勢新九郎盛時(北条早雲)が守備していた城になります。

花沢城は石脇城よりも標高が高く、より強固になっていますが、今川が一貫してこの地を駿府防衛の要衝と位置づけていたことがわかります。


花沢城が語られるのは、やはり武田信玄駿河侵攻の際の攻防戦です。

永禄11年(1568年)に駿河侵攻を開始した信玄は瞬く間に駿府を掌握し、今川氏真遠州掛川に追いやります。

一旦は帰国した信玄ですが再度駿河へ侵攻。今度は駿府(静岡平野)から志太平野へ侵攻し駿河国全域の掌握を目論みます。

永禄13年(1570年)、今川家臣の岡部氏が武田の傘下に入ると、峠を越えて山西地域(志太平野)に侵入。

高草山の中腹に陣を構えて花沢城を包囲しました。

正月4日に始まった城攻めですが、城が開城したのは27日。

今川家臣が次々に武田に離反するなか、花沢城は約1ヶ月に渡って戦い続けました。


写真がなくて残念ですが、花沢城から高草山を眺めると非常に近く圧迫感を感じます。

そこに信玄本体がいる状況でよくぞ1ヶ月戦い続けたものだと感心しました。

おそらく花沢城内の動きはほとんど見えていたのではないかと思われます。

もし訪れる機会があれば本丸から高草山を眺めてみてください。

そこに武田軍数千が陣取ってこちらを睨んでいると想像してください。本当に怖いですw



このお城、遺構はそれほどしっかり残っているわけではありません。

城跡というより農道を登って行った先にある手入れの行き届いていない山といった印象です。

ただ、私が登城したその日に本丸部に解説板らしきものを新たに設置していました。

(ビニールが被されていたので私は見られませんでした😭)

先程述べた石脇城も最近になって調査がなされたり、解説版が設置されたりしましたので、史跡の保存に市が力を入れ始めているのかも知れません。

もしかすると皆さんが行かれる時にはすごく綺麗に整備されているかもしれませんw

お楽しみにw


何か新しい情報が入ったらこちらでも公開できたらなと思います。私ももう一度行ってみます!

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では今回は以上になります。

次回もよろしくお願いします。

ありがとうございました!



県内の城を歩こう!#18丸子城

こんにちは!

今回は丸子城を取り上げたいと思います。


丸子城は静岡県静岡市駿河区丸子にあるお城です。

別名鞠子城、宇津谷城、三角山城などとも呼ばれます。

元はこの付近一帯を治めていた今川家臣の斉藤氏が城主として守っていましたが、武田家が駿河に侵攻すると武田の城として大改修が行われ、一時山県昌景が在城して備えていました。


信長公記』には「山中の街道沿い丸子の川端に、出城の山城がある」と紹介されています。

この街道とは東海道のことです。

富士山見物をした後、江尻城(清水)を出立した信長一行は丸子の先にある宇津ノ谷峠の登り口で休憩をとります。

丸子城に立ち寄った記録はありませんが、おそらくその足元を、城の説明などを受けながら通ったのではないかと思います。


丸子城が築城されたのは南北町時代だと言われています。

その頃から、主要街道であった東海道の監視と駿府を守る西の関門として重要視された城でした。

「#17持舟城」でも述べたように、駿府に西から侵入するには2つのルートがあります。海沿いを抜ける日本坂峠ルートと東海道を通る宇津ノ谷峠ルートです。

日本坂峠ルートを抑えていたのが持舟城であったのに対して、宇津ノ谷峠ルートを抑えていたのが丸子城でした。

駿府を防衛する上で非常に重要な城で、武田が大改修を行なって守りを強化したのもうなずけます。

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今川時代の丸子城は北の曲輪の部分を本丸として利用していたそうですが、武田氏によって現本丸が造られると、両本丸を繋ぐようにして二の丸・三の丸が整備されました。

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本丸から北の曲輪まで続く大規模な横堀は見応えがあります。(写真では伝わりづらい…)

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この鳥瞰図によれば丸馬出状の堡塁があるようです。

横堀のところにも丸馬出のような形状は見られます。

武田は南側に向かって城を拡張し、馬出などの改修を加えたことがわかります。

城域は南北500メートルにもわたり、堅牢さが窺える城ですが、武田が城を守る戦いをした記録はなく、1582年に徳川家康の侵攻によって南の持舟城が落城すると、丸子城にいた武田勢は退いたとみられています。

武田滅亡後も徳川家によって丸子城は管理されていましたが、1590年に家康が関東へ移封されると廃城となりました。

解説版によれば、遺構の保存度が非常に良いそうです。

武田氏の城が好きな方は是非訪れてみてはいかがでしょうか。



城を訪れる際には駿府匠宿の駐車場(有料)に車を停めて歩いていくのが便利です。

駿府匠宿は工芸や歴史の体験型施設ですのでついでに寄ってみてはいかがでしょうか。

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駿府匠宿の横を抜けて大手の方から登っていくとこのような道になります。

葉っぱがやや多いですが木々は手入れがしてあって比較的明るいです。(写真は3年前ですが…w)

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三角点がありました。

三角点マニアの方は併せてどうぞ。(いないかな…w)

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こんな看板もありました。

山城にはこういう手書きの看板多いですよね。

ありがたいですけど信じて行ってたまに騙されることもありますw

低い山ですけど山は山なので遭難にはお気をつけください。

そして最後は自分を信じてください。たぶんなのでw


では今回はこの辺にしたいと思います。

次もよろしくお願いします。

ありがとうございました!

戦国の世界情勢って…

こんにちは!

今回は戦国期の世界情勢について書きたいと思ってます。

というのも、先日NHKで放送された『NHKスペシャル 戦国−激動の世界と日本−第1集 秘められた征服計画 織田信長×宣教師』をようやく見ることができ、その感想でも書こうかなと思って今日はこのテーマにしました。

どうやらTwitter上では賛否両論飛び交っていたようで、歴史ファンからしても新鮮かつ刺激的な内容だったかと思います。

普段、戦国時代を語るときは国内の情勢しか語られることはありません。

〇〇家がどうしたとか、〇〇地方に侵攻するとか、日本のある家と日本のある地方のお話です。

しかしこの番組ではそのような話がほとんど出てきませんでしたw

出てきたのは日本とスペイン、日本とポルトガルといった国家間の関係性です。

その関係性を織田信長と宣教師のやりとりに注目して番組が作られていました。

そして今までの戦国史からすれば大変スケールの大きなお話になっています。


このブログだけで番組の内容まで細かく伝えることはできませんが、もしご覧になった方がいたら番組の内容を思い出しながら私の意見・感想も読んでいただけたらなぁと思います。(軽〜い気持ちでねw)

番組をご覧になってない方には少々伝わりづらいこともあるかもしれませんがご了承ください🙇‍♂️

(おそらく何回か再放送あると思います。NHKなんでw)



では本題に入りますが、まず番組を見ての率直な感想は「この題材を取り上げてくれてありがとう」でした。(ちょっと誰目線なのか自分でもわかりませんがw)

世界の情勢、特にスペインやポルトガルに着目して日本の戦国史を語ることは重要だなということは私も常々思っていました。

そして豊臣秀吉の行ったバテレン追放令や朝鮮出兵に関しては、世界情勢を交えながら自分なりに理由付けや説を作ったりしていました。

でもなかなか語る場(相手)がなかったですし、話したとしても理解してもらえることも少ないんですよね。

理解してもらえないのは、世界情勢が加わると説明も長くなってしまって説明下手な私では途中からわけのわからない話になってしまうことがおそらく1番の理由ですが、そもそも戦国にはロマンを求めていて、そういう現実的な政治とか地政学のような話は眠くなるから聞きたくないというのもあったのではないかと思います。

ですが、戦国時代のミステリーというのは比較的狭い視野で、かつ先入観にとらわれているものが多く、視野を広くするとつじつまの合う単純で合理的な話が多いということも事実ではないかなと思います。

(謎は謎のままのほうが面白いというのもよく分かりますがw)

ですのでこの番組、世界から見たこの頃の日本はどうだったのかという、歴史を語る上で必要な1つのベースの知識としては大変良かったのではないかなと思います。



番組は前半に織田信長と宣教師の関係、後半に豊臣秀吉と宣教師との関係を取り上げていました。

正直なところ、大方の流れは私の思い描いていた説と同じでした。(放送後ならいくらでも言えますけどねw)

宣教師たちがただキリスト教を広めにきたわけではなく、もともとはポルトガル(スペイン)の世界征服の一環として送られたスパイのような役割を担っていたが、100年にもわたる内紛状態にあった日本では兵士たちの練度が高く、武力で征服することは困難とみたため、キリスト教を布教し内側から征服していこう、という思惑があった。というのが私の説です。

そして、呂宋(フィリピン)がスペインの手に落ちたことを知った秀吉が宣教師たちの本当の思惑を知り、信長時代から認めていたキリスト教布教許可の政策を一転、バテレン追放令を出して朝鮮出兵を決断したのではないかという説です……が、番組では信長と秀吉は早い段階でこの思惑に気付いていたとされていましたね。

番組によれば、宣教師たちは日本の武力を利用して明を征服してしまおうと考えていたようです。

信長はそれを知っていましたが、その南蛮の力を逆に利用して軍事力を高め天下統一を目指しました。

豊臣の世になると、キリシタン勢力に脅威を抱いた秀吉は国内のキリシタン大名朝鮮出兵の先鋒を任せることで疲弊させて力を削ぎつつ、朝鮮を征服したらフィリピンにまで出兵してスペインの富を奪おうと考えていたと放送されていました。

秀吉がフィリピンにまで侵攻してスペインと対決しようとしていたかについては私は疑問に思いますが、信長の時代から宣教師と駆け引きを行なっていたことは興味深いなと思いました。

日本のことで手一杯かと思いきや世界から日本をどう守るかということまで考えていたのなら、やはり信長はとんでもない人物です。

秀吉に関しては、特に晩年の行動は傲慢さが目立ち、歳のせいとか野望が大きくなりすぎたとかマイナスなイメージで語られることも少なくないですが、日本を守るための行動だったという考えも一理あると思います。


信長や秀吉がポルトガル・スペインと頭脳戦を繰り広げたのに対して家康はイギリス・オランダと接近します。

ヨーロッパではスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れ、大英帝国の時代が始まろうとしていました。

スペインの勢力は次第に弱まり、新興国のイギリス・オランダが台頭してきます。

スペイン・ポルトガルは貿易と布教をセットで行いましたが、新興国は別でした。

よって家康は布教活動をしないイギリス・オランダとだけヨーロッパ貿易を続けることにしたのです。

次第にイギリスが撤退してヨーロッパとの貿易はオランダだけになりますが、それは1620年代頃に東南アジアで発生したアンボイナ事件が原因であると思われます。

オランダがイギリスの勢力を排除して、イギリスは東アジアからの撤退を余儀なくされました…

実はこの番組第2集がありまして、次回は徳川家康がイギリス・オランダとどう付き合うようになったかという話になります。

ですから次回も楽しみです。

アンボイナ事件出てくるかなぁ…?w


余談ですが、織豊時代の南蛮との関係は「トルデシリャス条約」と「サラゴサ条約」も大いに関係していると思うで、番組で出てくるかなと思ったのですが、出てきませんでしたね…

番組中に「我々には日本を征服する権利がある」みたいなことを宣教師が言っていました。

なんて理不尽な!そんな権利あるわけないだろ!と思いますが、おそらく上記の条約のことを示しているのだろうと思います。

スペインとポルトガルは地図上に線を引いて、この線から東はポルトガル、西はスペインというように勝手に領土分配をして開拓を進めていきました。

その分配では東アジアはポルトガルに属することになっていたため、日本を征服する権利はポルトガルにあったわけです。

しかしそもそもこの条約が理不尽すぎますw

今だから笑っていられますが当時としてはとんでもないことです。

その土地の文化や自然を大切にしよう、なんて概念は無い時代ですからね。

南米では虐殺やヨーロッパから持ち込まれた疫病によって多くの先住民が亡くなり、文明も滅びました。

そんな危険が日本にも迫っていたと想像してみてください。

信長や秀吉はそんな魔の手から日本を救ってくれたのかもしれません。

国内では大紛争をしながらそれをまとめつつ、外交では一歩も引かずに国を他国の介入を防ぐ。

なかなかできないことですよね。

大体どこの国も内紛が起きればその処理に追われたり、収束されられなくて他国の力を借りてしまい、それが新たな火種となっていつまで経っても豊かにならないといった問題があります。

そんななか独立を保ち続けることができた日本はやはりすごいのかもしれません。

三英傑様々ですね。

見直しました。



今回はそろそろ終わりますがやっぱり話がぐちゃっとなってしまいましたね😅

これ読んだけど説明がよくわかんない、という方はNHKをご覧くださいw


ではまたよろしくお願いします。

ありがとうございました。

県内の城を歩こう!#17持舟城

こんにちは!

今回は持船城を取り上げたいと思います。

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持舟城は静岡県静岡市駿河区用宗にあります。

JR東海道本線用宗駅のすぐ裏手の山が城跡になります。

用宗(もちむね)という地名は、持舟(もちふね・もちぶね)から変化したものです。

城の名前になった持舟は字の通り舟があったことに由来しており、この城は水軍の拠点として利用されていました。

信長公記』では、信長一行が駿府の町を見て安倍川を越えたのちに、「この川下の左の山の手に、武田勝頼が最近築いた持舟という城がある」というふうに登場します。

勝頼の築いた最近の城とありますが、実際には今川氏の時代からある城で、城主は重臣の関口氏であったと言われています。

日本坂峠を越えてくる西からの軍勢に対する駿府防衛の砦として重要視されたものと思われます。


今川氏真が武田氏によって駿河を追われたあと、持舟には向井氏が入り向井水軍の拠点となります。

長篠の合戦後、一時徳川勢に攻め落とされますが、武田勝頼は再び取り返し、今度は配下の朝比奈氏が入ります。

1582年に武田征伐が始まると再び徳川によって包囲され、朝比奈氏は久能山城に退去し城は開城。その後廃城となりました。


今川vs.武田、武田vs.徳川の攻防では多数の戦死者が出ており、持舟城は犠牲を払ってでも確保したい重要拠点であったことがわかります。

犠牲者の数は他の駿河国内の中世山城と比べても多いそうです。



ではそこまでして持舟城を確保したい理由は何でしょうか。

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(用宗の海岸から西を眺める)

持舟城の西側は写真のように海にまで山が張り出しています。(大崩海岸)

この山の向こう側は焼津という港町があり、大井川の沖積平野である志太平野が広がります。

志太平野遠江方面から駿府に入るには、大きく分けて2つのルートがありました。

1つは東海道(現国道1号線)の通る宇津ノ谷峠。

2つ目がそれより海側を走り日本坂峠を越えるルート(現東海道本線・新幹線・東名高速道路国道150号線)です。

持舟城はこの2つ目のルートを抑える目的がありました。

また、海に近い(当時は深い入江があって天然の良港であった)ため、海上の監視と水軍の拠点となりました。

特に武田氏は駿河国支配に関して水軍を重要視していた節があるので、そのネットワークの1つとして、つまり駿河(駿府)支配の最重要拠点の1つとして持舟城を位置付けていた可能性があると思います。

上記もしたように、長篠の合戦後の1579年に徳川勢に奪われた持舟城を、武田勝頼は1580年にはすぐさま取り返しています。

駿遠国境にある「#6小山城」や「#7諏訪原城」も大井川を活用したネットワークで繋がっていますし、「#9久能山城」「#16江尻城」「#13蒲原城」「#12興国寺城」は湊や入江を有していたり海岸線を監視できる位置にあり、対北条の最前線である三枚橋城まで水軍ネットワークで繋がります。

このように武田家、とりわけ武田勝頼は水軍を大いに活用し、それを基にした城造りや配置をしていたのではないかと思います。

ですからその中間地点にあたる持舟は特に重要だったのかもしれません…



ちなみに余談ですが、持舟城代でもあり武田水軍の重要人物向井氏のお墓(供養塔?)は「#15清見寺」にあるそうです。

先日清見寺を訪れた際に、たしかに向井氏の墓を確認したのですが、近くにガイドさんがいなくて聞けませんでした😅(やっぱりあの向井さんだったのか…w)

向井水軍ファンの方がもしいれば、セットで訪れてみてはいかがでしょうか。



今となっては小さな山ですが、そのような背景を知るとただの山登りではなくなるかもしれません。

景色もとても綺麗でしたが動画で撮ってしまっていたので紹介できません😢

ご自身の目で見て確認してくださいw

用宗の港町から駿河湾伊豆半島久能山駿府の町・富士山までを全て見渡せます。

絶景ですから是非見ていただきたい!

あと城山の真下を新幹線が通ってますから鉄道ファンのフォトスポットとしても最高です。

駅からも近くて駐車場も(数台ですが)ありますのでアクセスもしやすく、山も高くないのでお手軽な山城です!

用宗港では駿河湾名物しらすが食べれますから観光がてら是非訪れてみてください!


今回は以上です。

次もよろしくお願いします。

ありがとうございました。

県内の城を歩こう!#16江尻城

こんにちは!

今回は江尻城を取り上げたいと思います。

 

 

江尻城は静岡県静岡市清水区にあった城です。

地域支配の重要拠点であった城でしたが、今その遺構はほとんど残っていません😢

清水の町なかを流れる巴川を背に、扇状に城が展開されていました。

現在、本丸跡は清水江尻小学校が建てられており、その他の遺構も住宅地となっていて当時の縄張りを確認するのは難しい状態です。

城の解説版は小学校を始め数カ所に設置されているようですが、住宅地や小学校の周りをうろつくと怪しまれてしまうのでお気をつけ下さいw

 

江尻城は武田氏によって築かれた城です。

駿河に進出して念願の海を手に入れた武田氏が、その支配を盤石にするため築いた城です。また、遠江三河方面の軍事を統轄する役割もありました。

縄張り(城の設計)をしたのは今やお馴染みの馬場信春で、丸馬出しが3カ所設けられた東西400m、南北260m規模の城だったようです。

当時としては珍しい平城ですが、城の背後を流れる巴川から清水湊へ繋がることで、湊の水運と水軍が利用することを意識したものと思われます。

城には武田四名臣・山県昌景が入城。長篠の合戦で昌景が戦死すると、武田家御一門衆の穴山信君(梅雪)が入城しました。

武田家のなかでもかなりの大物が城を任されていることから、武田はこの城を大変重視していたことが窺えます。



では、江尻城代になった2人についても少し触れたいと思います。

まず山県昌景です。

彼は武田二十四将の1人で、馬場信春高坂昌信内藤昌豊と並んで武田四名臣(四天王)にも数えられる名将です。

また、赤備え軍団を率いていたことでも知られています。

赤備えといえば、少し前に大河ドラマ『おんな城主直虎』が放送された際、様々な特番で井伊直政井伊の赤備えが取り上げられました。

鎧を朱色で統一して敵に突撃し、井伊の赤備えと聞くだけで敵が震え上がったという話です。


ただその軍団、元はと言えば昌景の軍団なんですよね。

そこまで解説してくれている番組ってあまりなかったので少し残念でした…

元々の赤備え軍団は昌景の兄の飯富虎昌という人物が率いていましたが、ある事件に連座して自害することになり、弟の昌景が軍団を譲り受けて率いることになりました。

そこから昌景の赤備えは名を挙げていきます。

中興の祖というか…武勇と知名度を兼ね備えた真の赤備えを完成させたのは山県昌景だと私は思っていますw

そして昌景が死に、武田が滅んだ後に徳川配下になった赤備え軍団は井伊直政のもとに預けられ、そこで初めて井伊の赤備えが誕生するわけですね。

だからもうほぼ完成してたんですね。

そりゃ強いですって話ですw


筆者は好きな武将が山県昌景なので井伊の赤備えだけがチヤホヤされるのが嫌なのですが、井伊直政も静岡にゆかりのある人なので

批判はやめますww

直政のことも好きになってくださいw


次は穴山信君(梅雪)です。

率直にいってこの方は好きになれませんw

(穴山ファンの方すみません)

御一門衆筆頭でありながら織田徳川軍に内通し武田家瓦解を決定的なものにした、というイメージが強すぎるからです。

一説には、もう武田が滅びることは止められないので、武田一門の自分が内通して生き残ることで武田家再興の道を残そうとしたと言われておりますが内心はどうだったでしょうか。

穴山信君の最期は、本能寺の変の際、徳川家康とともに伊賀越えを行い、途中で家康を不審に思った信君が別行動をとり、そこで一揆勢に討たれたとか落ち武者狩りにあったとか言われています。

信君だけ急に別行動をし始めて、信君は襲われたのに家康は無事帰ってきたというのは何やら怪しい話ですが、いずれにせよ裏切りの因果なのか良い最期だったとは言えませんね…

信君の死後は息子の勝千代が家督を相続し、武田姓を復活させて武田信治と名乗りますが疱瘡により16歳で死去し穴山家は断絶します。

武田家再興も長くは続きませんでした…


この本能寺の変に関する穴山信君徳川家康の動きは謎が多くて面白いので、いつか別の回で取り上げたいと思います。




今回はそろそろ終わります。

遺構がないので初心者向きではありませんが興味のある方は是非行ってみてください。

大手とか二の丸町とか地名は残ってるみたいですよ!


それではまたよろしくお願いします。

ありがとうございました。

県内の城を歩こう!番外編 #15清見寺

こんにちは!

今日は「県内の城を歩こう!番外編」で清見寺(せいけんじ)というお寺をご紹介したいと思います。

今回は初めてお寺の紹介をします。

城ではありませんが、戦国大名にゆかりの深いお寺ですのでぜひ訪れてみてほしいと思います。

 

清見寺も前回の「#14由比」と同様に『信長公記』に登場します。

信長公記』には、「(由比へ行ったあと)磯部の波に袖を濡らし、清見ガ関、興津の沖の白波を見…」とあります。

清見寺の由緒をみると、その昔東北の蝦夷に備えて此の地に関所が設けられ清見関と呼ばれていた、とありますので、清見ガ関が清見寺のことだとわかります。

もともと関所があったその傍らに仏堂が建てられ、関所の鎮護としたことが清見寺の始まりだそうです。

というわけで、相当な歴史のあるお寺です。

 

 

清見寺の場所は、静岡県静岡市清水区興津です。

東海道の興津宿から数百メートルのところにあり、眼下には興津や清水の港を見下ろすことができます。

寺は東海道に面するようにあったと思われますが、現在では境内地を一部分断するように東海道本線が敷かれています。

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(旧東海道から見る清見寺)

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(東海道本線清見寺、階段が途切れている)

現在でも東西の大動脈が集中して寺の前を横切っていることからも、ここに関所が置かれた理由がよくわかると思います。

 

関所から寺になった清見寺は、康永2年(1343年)足利尊氏によって日本十刹の七位に選ばれました。

そして室町時代になると、足利氏と関係の深い今川氏が駿河守護となったため、清見寺は厚く保護され、京から駿河へ下向する要人があればここで出迎え和歌などを詠じるなど、迎賓館的な役割も果たしていたようです。

戦国時代になると、武田軍や徳川軍が当寺に陣を構えたとされ、また北条征伐の際には豊臣秀吉が一時本営を置いたとされています。

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左手に梵鐘があるのですが、こちらは北条征伐の折に韮山城を攻めるための陣鐘に用いられたそうです。

江戸時代には徳川家の帰依を受け、朝鮮通信使の休憩場所としても利用されました。

明治になると天皇との縁をもち、大正天皇東宮(皇太子)時代に滞在、または宿泊され興津の海で海水浴をしたこともあったようです。

このように古刹・名刹なだけあって非常に多くの著名人と関わりの深いお寺です。

また、清見寺は古くから歌にも多く詠みこまれています。

万葉集からはじまり、足利義教武田信玄豊臣秀吉松尾芭蕉北原白秋与謝野晶子までそうそうたる面々が清見寺を詠みました。

清見寺は背後が山でやや高台にあるため、そこから見渡せる浦・津・潟の景色と湾の向こうに見える三保の松原を詠んだ作品が多く残ります。

今は家屋が高くなったことや港のクレーンや倉庫によって視界は遮られてしまいますが、そこから当時の情景を想像するのもまた一興です。

 

 

清見寺には偉人に関する多くの逸話が残るだけでなく、その証拠となる物も残っています。

先日私もお邪魔させてもらいましたが、寺なのにまるで博物館のようでした。

貴重なお宝が飾られております。

関所だった頃の材木を用いた血天井朝鮮通信使の残した資料等ももちろん大変貴重な物なのですが、私のお目当ては家康手習の間を見ることでした。

清見寺は戦国時代に、今川義元の軍師で当ブログでも度々登場する太原雪斎が住職を務めていました。

そして徳川家康がまだ今川の人質だった時代、雪斎のもとに預けられこの清見寺で武士にとって必要な知識を勉強していました。

その家康が学んでいた部屋を見学することができます。

私が見た感想としては、とにかく狭いw

「人質といえども良質な教育を施して後の天下人の礎を築いた家康幼少期」とはやはり今川びいきの意見だったのでしょうか。

実際の手習の間は少し薄暗い3畳ほどの部屋で、ここで毎日勉強していたのかと思うと切なくなりました。

今川が家康に教育を施してどう利用しようとしていたのかはわかりませんが、人質は人質なんだなと思ってしまいました…

しかし、この頃のことを家康はもしかしたら良い環境だと思っていたのかもしれません。

この寺には家康に関する物(手植えの梅や陣中で使用した輿)が残っていますし、何しろお寺の至る所に葵の御紋があるように、家康をはじめ徳川幕府は代々このお寺を保護してきました。

たしかに教育の内容としては最高のものが与えられていたと思います。

家康にとってこの下積み時代は辛いものだったかもしれませんが、良い経験だったと思っていたのかもしれません…


もう1つ驚いたのは、慶應3年に増築された書院があることです。

こちらは明治天皇御成りの間を保存しているとのことで玉座があります。

明治時代といえば、神仏分離廃仏毀釈が進み、お寺が窮地に立たされていた時代でした。

そんな時代に、徳川にゆかりある(足利尊氏とも縁の深い)お寺に天皇が来るということは珍しいことなのではないでしょうか。

しかも大正天皇は度々来られています。

もしかすると我々が考えるほど神道と仏教とは対立構造にはないのかもしれません。

(これについてはいつかじっくり書かせてもらいたいと思います)

そんなことを考えながらじっくり玉座を見学させていただきました。

玉座を見る機会など滅多にないので感動しましたw

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今回は以上になります!

清見寺はアクセスもしやすく駐車場もありますし、ガイドさんがいらっしゃる時もありますので見学しやすいと思います。

ぜひ訪れてみてください!


次回はようやく城に戻って、「江尻城」という城を紹介したいと思います。

また次回もよろしくお願いします。


ありがとうございました!


県内の城を歩こう!番外編 #14由比宿

んにちは!

今回は「県内の城を歩こう!番外編」として由比(ゆい)という宿場町を取り上げてみたいと思います。

先日から『信長公記』の信長富士山見物コースをたどりながら名所を紹介していますが、この由比も「神原(蒲原)の浜辺を通って由比へ行った…」という書かれ方で登場します。

江戸時代に東海道の宿場町として栄えた町ですから、信長一行が通った当時にどれほど栄えていたかは不明ですが、交通の要衝であったことは間違いありません。

今日はそんな由比の宿場を、徳川幕府を揺るがす大事件とともにご紹介できたらなと思います。

 

 

由比宿は東海道53次16番目の宿場で、現在の静岡県静岡市清水区由比に位置します。

東に蒲原宿、西に興津宿があり、特に西の興津宿との間には、東海道最大の難所の1つである薩埵峠があるため、峠越えの宿場として栄えました。

宿場には旅人が泊まる旅籠(旅館)のほかに、参勤交代で大名が宿泊・滞在するための「本陣」が備えられており、この本陣を中心に宿場町が形成されています。

由比の場合も、町のほぼ中央に本陣があり、現在は由比本陣公園として整備されています。

 

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由比宿は本陣1件、脇本陣(本陣の予備的役割)1件、旅籠32件で人口が約700人と、規模でいうとやや小さい宿場であったようですが、先述したように峠越えの宿場であることから重宝されたものと思われます。

また、宿場の入り口を流れる由比川には、かつて仮の板橋が架けられていたそうですが、増水すると板を取り外してしまうため、通行できず足止めをくらうことがあったそうです。

よって規模が小さいながらも、待機所として重要な役割を果たしていた宿場だったのではないかと思います。

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本陣の周囲には水堀があって、当時は馬の水飲み場や洗い場になっていたそうです。

 (今はかめがたくさんw)


由比宿には本陣以外にも宿場町の名残があります。

道の幅、街並み、一定の間口、路地を進んだ先にある神社や寺…など一般的な宿場町に見られる特徴がところどころに感じられます。

また、宿場町にある欠かせない特徴として町の両端にあるクランク(枡形)が挙げられます。

これは敵の侵入を防いだり遠見遮断を目的に作られたもので、由比宿にももちろん存在していました。

中山道の観光地、妻籠宿や馬籠宿に見られるようなはっきりとした枡形が残っているわけではありませんが、「これ桝形っぽいなぁ…」と思うような痕跡は見ることができましたw

クランクは現代の車社会にはただの障害でしかないので、取り壊されてしまう場合が多いですが、その名残が見られるところはあるので、そういう観点から宿場町や城下町を走ってみるのも面白いです。

そもそも桝形は障害物として作られた訳ですから、現代でも邪魔だと思われているなら本来の役目を全うしていて素晴らしいなと思ってしまいますw

だから取り壊されて欲しくはないのですけど…地元の人からしてみたら心の底から邪魔だと思いますし、見通しが悪いことは事故の危険もありますからね。しょうがないことです。

 

 

さあ、冒頭に徳川幕府を揺るがす大事件について取り上げると書きました。

最後に由比宿にも少し関連する大事件についてお話ししたいと思います。

歴史マニアの方はもうお気づきかもしれません。

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ヒントはこちらです。

のれんには「正雪紺屋」とあります。

そうです。

こちらは幕府転覆を企てたとされる由井正雪が過ごした家とされています。

世に言う「慶安の変」の首謀者とされる人物です。

江戸時代初期、3代将軍徳川家光の頃は、天下泰平とはいうもののまだまだ戦国の臭いが濃く残っており、徳川幕府も諸大名に必要以上に睨みをきかせていました。

力のある藩は転封(領地替え)を行なって力を削ぎ、少しでも幕府に歯向かったり謀反の噂が聞こえてこようものなら即座に改易(取り潰し)の憂き目にあうという殺伐とした世の中でした。

また、当時は後継ぎがいないまま死んでしまう大名も少なくなかったのですが、幕府は末期養子(お家断絶を避けるために迎える養子)を禁止していたため、当主不在で無くなる藩もありました。

藩が無くなると仕えていた家臣たちは多くが浪人となります。

江戸初期には取り潰されたりお家断絶となった大名家の元家臣(浪人)が急増し、江戸の治安は悪化。幕府に不満を持つ者も多かったそうです。

そこで由井正雪が登場します。

17歳で江戸に出た正雪は、そこで兵法を学びのちに自らの軍学塾を開くまでになりました。

軍学塾には大名家の家臣や旗本、浪人たちも多く含まれ、門下生は膨大な数になっていました。

そして慶安4年(1651年)に3代将軍徳川家光が死去すると、まだ4代将軍徳川家綱が幼かったこともあり、幕府政策への批判と浪人救済を求めて挙兵を企てます。

しかし、各地で浪人を集めながら決起しようとした矢先、計画を密告する者が現れ、正雪は駿府にいるところを町奉行に囲まれ自刃したといいます。

享年は47歳でした。

この密告者が誰なのかは気になるところですが、実は幕府側が忍び込ませていたスパイだったそうです。

門下生に浪人が多くいたため目をつけられていたのかもしれません。

事件が発覚した後、大名家の家臣が多く通っていたこともあり、正雪との繋がりを疑われた大名家もありました。

これらのことから、事件は未遂に終わったものの、幕府だけでなく各大名家や旗本までもが震撼した大事件になった訳です。


増加し続ける浪人の不満がもたらしたこの事件を機に、幕府はこれまでの武断政治改め文治政治に切り替えることになりました。

末期養子の禁止も緩和し、浪人の増加を防ぐために藩の取り潰しなども少なくなっていきました。

幕府転覆はありませんでしたが、結果的には浪人たちの不満が幕府を動かすことにつながりました。

戦術的には負けたが戦略的には勝ったとかなんとかのやつでしょうかw

大悪人のように言われがちな正雪ですが、後の世の浪人を救ったとも言えるかもしれません。

いずれにせよ、そのような有名人が静岡出身ということは1つの観光資源であると思うので紹介させていただきました。


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(本陣の手前が正雪紺屋になります)



いかがでしたでしょうか。

今回は以上になります。

最近城の話が少ないですが、もう少ししたらまた書きますので…w

そろそろネタ集めに城巡らないとなぁ…w

 

では、次回もよろしくお願いします。

ありがとうございました。